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ゆうゆうタイム

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<   2016年 03月 ( 14 )   > この月の画像一覧

春のこども

今年は3月28日に 家の角地の雪の山が 完全になくなった。
大雪だった2月29日に、除雪車が積み上げていった雪の山だ。
湿った雪だったが その後は表面が氷と化して スコップも刺さらない。

行き来するたびに、眼に入るのが汚れた雪の山。
そんな雪山を崩すのに、春休みで連泊中の孫1号が 
スコップやつるはしを使い、日々奮闘した。

数日かかって ようやく氷割り&雪まきが完了!
だから今日はなんだか 完全に春到来!とルンルン気分。

もはや春は あちこちに!!!
家々の庭や土手の斜面 いろんなところに。
アサツキもにょき、にょき。
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オオイヌノフグリもかわいいし
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金色の福寿草が どこの庭でもキラキラ輝く。

日当たりのいい庭では クロッカスもいっぱい。
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わが家の庭は 三角屋根から大量の雪が落ちるので春が遅い。
やっと雪が消えた土のなかから 大きな福寿草のつぼみが、
控えめに 顔を出しはじめた。
ひと足遅いわが花たちよ、どうかゆっくり春を満喫してね。

ふきのとうも どこにでも競うように顔を出しはじめた。
さあて、いよいよふき味噌作りに取りかかろうか。
小瓶に詰めて ケアハウスの母に届けよう。
天ぷらもいいなあ。
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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

妹のまごちゃんが 帰省中。
私の遊び相手Rは、もうすぐ入園式。
こないだまで 赤ちゃんだったのに。
あっというまに大きくなって。

春休みで泊まりに来ている孫ちゃんと、我が家のデッキで恒例のシャボン玉遊び。
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みんなで散歩したり。c0204725_0222479.jpg

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春の公園にでかけて 遊具で遊んで、戦いごっこをして追いかけたり。
ゆうらん、ゆうらん、ブランコに乗ったり。
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遠くの山々の頂には 白い雪・・・
子どもには 春がよく似合う。

3月末の気忙しく 神経を使う仕事が一段落。
毎月の忙しい時期は 命を削る思い・・・生きがいと消耗が共存する。 

そういう時期も終わり、駆け廻るまぶしい子どもの笑顔を 
春風に吹かれながら ほっこり気分で眺め、しばしのリラックスタイム。

やっぱり春は いいなあ・・・
by yuko8739 | 2016-03-29 22:54 | 家族・親族 | Trackback | Comments(0)

宗教を持たなくても

あるブログで このような言葉と出会った。
「宗教を持たなくても、祈るという『行為』はあるのだろうか」

もちろん、あると思う。
少なくとも私は 内なる私の「神」によく祈る。

神さま、という呼びかけは 私のなかで日常的だ。
祈りは 神さまに捧げるしかない。
神さま、と呼びかけるだけで 落ちつく気がする。

なにか大きなもの 人知の及ばないはるか彼方に向かって 
頭を垂れて祈る。
キリスト教か、仏教か、どんな宗教の神かしらない。

「私の存在をかなしみ、そして許すもの」
それが神だと 昔から思っている。

神は私のなかに いるような気もするし。
宇宙のすべてでも あるようだ。

自然の草木や花のなかにも、
小さな虫や動物の姿にも 化身して、
空や雲や星々の輝き 川も海も、
すべての自然のなかに 変わらずに凜と存在するもの。

尊く はるかで 無限にやさしく、
厳しくも 温かく 私を癒す・・・

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

先日「ヒグマの講演会」で聞いた、
アイヌの古老の言葉が すてきだった。
「人間と自然は 天から下されたもの。
天から下されたもので、役に立たないものはない・・・」

アイヌの言葉では 3月の雨のことは「熊の子を洗う雨」というそうだ。
春になって 巣穴から出たばかりの小熊の柔らかな毛に 
小さく優しい春の雨粒が 玉のように光って落ちる様子が
思わず目に浮かび、その光景の美しさに 胸を打たれた。

アイヌ語は 物語であり 詩そのものだと感じる。
神=カムイをいだく民は このように自然と共に生きる、
奪うこともなく。
そんな平穏で平和な暮らしを奪ったのは 人間だ。


我が北海道、先住の民の教えを 学んでみたいと感じた。
そこには 現代人を救済する大きな「物語」があるかもしれない。

神よ、春の小熊ほどの純真も 私にはありません。

それらの欠片のひとつでも 私にお与えください・・・
by yuko8739 | 2016-03-25 11:32 | | Trackback | Comments(0)

人が壊れていく

内田樹氏ブログの「日本はこれからどこへ行くのか」
という文章を とても深い興味と関心を持って 何度も繰り返し読んだ。
というのも、「人が壊れていく」というのが、この頃の私の実感だからだ。

今の日本政府は 憲法違反なだけでなく 経済の面でも
企業を優先し、その利益を守り グローバル化に拍車をかける。
成長路線に乗らないと 明日がないかのように。
成長とは 続けなければならないものだろうか。

立ちどまることをしないまま進んでいる間に、低賃金、失業率の増加、
貧富の格差拡大、人権無視や過酷な労働環境、世界を見ても
途上国の深刻な環境問題など、グローバル化という大波によって、 
人が人として 生きるのが難しい世界となっている。

その大波は 今や どこか遠い都会の話ではない。
今私が暮らしている この地域でも同じこと。
コストを可能な限り下げて 収益を追求する企業。

もっと必要なはずの労働者の人数を減らし、ぎりぎりの人数で 
自転車操業を続けている。
常に残業に追われていて、想像もつかないくらいにハードだ。
そのなかで労働者は 不調に苦しみ、健康を害しても休暇も取れない。

そういう『働き方の大きな変化』のなかで、
人間はどんなふうになってゆくのだろうか。
最近いろいろと見聞きしたことだが、働く現場で、確実に人の心や
からだが 壊れつつあることを 強く感じている。

ついには 最悪の結果、つまり追い込まれて仕事を辞めるしか
なくなってしまう。
人が壊れていく。
もう耐えられないのだ、これ以上は。

そういう状況を見るにつけ、感じるにつけ、今の日本はなんなのか。
これがグローバル化「世界標準」ということなのか。
なぜ、こんなことになってしまったのか。

そんな思いが どうしても消えない。
経済はどうしても この道しかないのだろうか?
誰のために?
なんのために?

働く環境は過酷さを増し、正規雇用の網からもれ落ちた労働者は
非正規雇用でしか 生きていく道はない。
そして、非正規雇用は低賃金と重労働の象徴なのだ。

働く者は どうしたら救われるのか・・・
そんな思いでいたら、あるブログの言葉に出会った。
(以下 引用)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

~企業の内部留保は年26兆円も増し、純利益の4割が配当金。
年13兆円も富裕層に 浪費されている。

この20年間に顕著になった子どもの貧困、児童虐待、DV、
老老介護殺人、等々の社会問題は、基本的に家庭が弱く
脆くなったことが原因で起きている。

弱く脆くなったという意味は、得るべき収入が削られ、
健全な再生産に十分な経済的基盤を得ていないという意味だ。

20年前のように、一家の働き手に十分な収入があり、
家を買ってローンを払い、四人家族の生活を支え、
子どもを大学にまでやれ、貯金をして老後を送れるという生活が
普通にできていれば、これほど悲惨な諸問題が噴出、
多発して絶望的状況が蔓延することはなかっただろう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こういう視点で 富の再配分を訴えているのは
共産党だけかもしれないが。

もしかしたら消費税増税よりも 企業の利益を社会的な弱者に
再配分するのは 本質的な解決策ではないのか。

この解決策は 絵空事なのだろうか・・・
あまりに今の社会は 強者がより強くなり、弱者は増えて 
貧困が常態化している。

「無限のイノベーションに駆動されて 加速度的に変化し
成長し続ける世界」を終わりにするのだ、人間が壊れるから。

そんな内田氏の深い洞察と警告が さまざまな問題解決に
何らかの形で寄与することを 私は強く願う。

身近なところでも 民主主義の崩壊を私は感じている。
すべて「経済優先」の社会に 深い闇が覆う・・・
人権は無視され、人は壊れる。

これが資本主義の行きつく、最後の場所なのだとしたら、
あまりにも 虚しく、救いがないと思う。
by yuko8739 | 2016-03-23 21:03 | 社会 | Trackback | Comments(0)

日本はこれからどこに行くのか(内田樹)Ⅲ

<内田樹研究室>より抜粋

生身の人間が自然環境・社会環境との間でなしうるのは
「折り合いをつける」ことまでであって、それ以上のことは求めてはならない。
それくらいのことはわかっていいはずなのだが、それくらいのことさえ
わかっていない人間たちが現代世界では、政官財メディアの世界を仕切っている。

彼らはつねに浮き足立っている。つねに何かに追い立てられている。
「一刻の猶予もない」「バスに乗り遅れるな」というのが、
彼らが強迫的に反復する定型句である。

彼らは「浮き足立つ」とは、「状況の変化に絶えず適切に対応してこと」と
同義だと信じているようだが、それは違う。
彼らはただ「浮き足立つ」という不動の定型に居着いているに過ぎない。

それが最も端的かつ病的に現われているのが先に述べた通りメディアである。
メディアは「変化」に依存し、「変化」に淫しているビジネスなので、
あらゆる変化は、それが劣化や退化であっても、メディアに「ニューズ」を
提供する限り「よいもの」と見なされる。

だが、彼らは自分たちがあらゆる変化を歓迎する定型的なものの
見方に居着いて、自らは全く変化していないという事実は
意識化することができない。

だから、「ニューズ」を売って生計を立てることがビジネスとして
成立しなくなりつつあるという「ニューズ」はこれを取材することも
分析することもできないのである。


例えば、全国紙の消滅というリスクはもう間近に迫っている。
これがどういう理由で始まり、どう進行し、やがてどのような社会的影響を
もたらすかということについてまともな分析をしている全国紙の
あることを私は知らない。

もうどの新聞も、購読者の高齢化と、若者たちの新聞離れと、
新聞自身のメディアとしての機能劣化によって「ゼロまで」の
カウントダウンに入っている。

現場の若い記者たちは、果たして定年になるまで自分の会社が存在するのか
どうかについて不安を隠さない。
だが、同様の危機感を新聞社の上層部からはほとんど感じることがない。

全国紙の消滅は「たいした変化をもたらさない」と言い放つ人もいる。
紙の新聞がネットニュースに取って代わられるだけのことだ、と。
私はその見通しは楽観的に過ぎると思う。

あまり知られていないことだが、日本のように数百万部の全国紙が
いくつも存在するというような国は他にはない。
『ル・モンド』は30万部、『ザ・ガーディアン』は25万部、
『ニューヨークタイムズ』で100万部である。

知識人が読む新聞というのは、どこの国でもその程度の部数なのである。
それが欧米諸国における文化資本の偏在と階層格差の再生産をもたらした。
それに対して、日本には知識人向けのクオリティーペーパーと
いうものが存在しない。

その代わりに、世界に類例を見ない知的中産階級のための全国紙が存在する。
それがかつては「一億総中流」社会の実現を可能にした。
一億読者が産経新聞から赤旗までの「どこか」に自分と共感できる社説を
見出すことができ、それを「自分の意見」として述べることができた時代があった。

結論が異なるにせよ、そこで言及される出来事や、頻用される名詞や、
理非の吟味のロジックには一定の汎通性があった。

この均質的な知的環境が戦後日本社会の文化的平等の実現に多いに
資するものだったことについて、すべての新聞人はその歴史的貢献を
誇る権利があると私は思う。

けれども、当の新聞人自身は、日本の全国紙が世界的に見てどれほど
特殊なものであるのか、どのような特殊な歴史的条件で出現して
きたものであり、それゆえどのような条件の欠如によって消滅する
ことになるのかについてほとんど何も考えてこなかった。

当事者が何も考えていないうちに、遠からず全国紙はその歴史的使命を
終えることになる。それがもたらす社会的影響は、記者の失業というような
レベルの問題にはとどまらない。

それは「言論のプラットフォーム」が消失するということであり、
文化資本分配における「総中流」時代が終わるということを意味している。

ネットでニュースを読む人たちは、「自分たちが読みたいと思っている記事」だけを
選択することによって、「自分たちがそうあってほしいと思っている世界像」を
自ら造形している。そのリスクに気づいている人もいるはずだが、もう止めようがない。

主観的に造形されたばらばらの世界像を人々が私的に分有する社会では、
他者とのコミュニケーションはしだいに困難なものになってゆく。

それはギリシャ神話の伝説の王が手に触れるものすべて黄金にする能力を
授けられたために、渇き、飢え、ついには完全な孤独のうちに
追いやられたさまに少し似ている。

自分が選んだ快適な情報環境の中で人々は賑やかな孤独のうちに幽閉される。
情報テクノロジーの発達とグローバルな展開が情報受信者たちの「部族化」を
もたらすという逆説を前にして私は戸惑いを隠せない。

全国紙が消え、「コミュニケーションのプラットフォーム」が失われるというのは、
巨大な「事件」である。
なぜ、そのような「事件」の予兆がありありと感じられながら、
メディアはその「事件」を報道しないでいられるのか、
それをとどめるための手立てを講じずにいられるのか。

いやしくも知性というものがあれば、この現実からは目を背けることが
できないはずである。私はこの自己点検能力の欠如のうちに
メディアの深い頽廃を感じるのである。
by yuko8739 | 2016-03-22 19:47 | 社会 | Trackback | Comments(0)

日本はこれからどこに行くのか(内田樹)Ⅱ

(内田樹の研究室)より引用

本来なら今よりもっと前のどこかの段階で、私たちはずいぶんさまざまな変化を
してきたけれど、それはほんとうに必要なことだったのか、適切な選択だったのか、
それについて立ち止まって総括をすべきではないか」という提案が
なされるべきだったと思う。

けれども、誰もそんなことを口にしなかったし、思いつきもしなかった。
なぜか。理由は簡単である。メディアはそのような問いを思いつかないからだ。
メディアは構造的に「変化の是非を問う」ということができない。
メディアにとってあらゆる変化は変化であるだけですでに善だからである。

当然のことだが、メディアの頒布している唯一の商品は「ニューズ」である。
「新しいもの」、それしかメディアが売ることのできる商品はない。
「ニューズのない世界」にメディアは存在理由を持たない。
「今日は特筆すべき何ごともありませんでした」というのは、
生活者にとってはとても幸福なことであるが、メディアにとっては地獄である。

だから、メディアは原理的に変化を求める。
変化を嫌い、定常的に反復される制度文物があれば進んで手を突っ込んで
「変化しろ」と急かし、場合によっては破壊しさえする。

そして、メディアで働く人たちは、自分たちが「変化は善である」という
定型的信憑に縛り付けられて、そこから身動きできなくなっているという
事実に気づいていない。



私はそれを学校教育の現場で身にしみて味わった。
私が教育現場にいた過去30年間、メディアが
「学校教育のこの点については『これまで通りでよい』と思う」と
書いた記事を読んだ記憶がない。

教育に関してメディアは「なぜ、もっと早く、もっと根本的に変わらないのか」
しか書かなかった。これは誇張ではない。

だが、学校や医療や司法のような社会的共通資本の最優先課題は
何よりもまず定常的であること、惰性的であることなのである。
それが生身の人間の等身大の人生を安定的に保持するための装置だからである。

そのような装置はそのつどの支配的な政治イデオロギーや消費動向や
株価の高下や流行などに左右されてはならない。
定常的・惰性的であること、急激には変化しないことが手柄であるような
社会制度というものがこの世には存在するのである。


政権交代するごとに変わる教育制度とか、景況が変わる毎に変わる医療制度とか、
株価の高下で変わる司法判断とかいうものはあってはならない。
勘違いして欲しくないが、それは政治イデオロギーがつねに邪悪であるからとか、
経済活動はつねに人間を不幸にするという理由からではない。

政治イデオロギーの消長や市場での消費者や投資家の行動は「複雑系」であって、
わずかな入力の変化によって劇的に出力が変わる。
複雑系は安定的な制御が困難であり、次のふるまいを予測することが不可能である。

だから、人間が集団的に生きるために安定的に管理運営されていなければ
ならない制度は複雑系に委ねてはならならないのである。
「変化してはいけないものには手を着けない」という当たり前のことを
常識に登録しなければならない。

中国の大気汚染や水質汚染や鉄道事故や建造物の崩壊などは、
経済的利益を最優先して、人間の生身の体を配慮しないと何が起きるかを示す
好個の例である。大気や水質は基本的な社会的共通資本である。

それなしでは人間が生きてゆけないものである限り、空気や水は
何が起きようと安定的に管理されていなければならない。
いっときの経済成長のために汚染するに任せてよいものではない。



でも、そんな当たり前の理屈がもう通らなくなっている。
それがグローバルスタンダードなのだ、それを基準にして最速で行動しなければ
経済競争に遅れを取るのだと言われて、これまで人々はそんなものかと
あいまいに頷いてきたけれど、ようやく「ちょっと待ってくれ」と言い始めた。

すると、気色ばんだ人たちがやって来て、
「待てというが、おまえに対案があるのか? 原発を稼働させ、増税し、
武器を輸出し、生産性の低いセクターを淘汰する以外にどうやって
経済成長する道があるのだ?」とがみがみ言い立てる。

けれども、生身の人間が生きてゆくのが困難になるようなことをしておいて
「文句があれば対案を出せ」と急かすのはことの筋目が違うだろう。
私たちは「いくらでも変化してよいもの」と「手荒に変化させてはならないもの」を
意識的に区別しなければならない。

繰り返し言うが、人間が集団として生きて行くためになくてはならぬもの、
自然環境(大気、海洋、河川、湖沼、森林など)、
社会的インフラ(上下水道、交通網、通信網、電気ガスなど)、
制度資本(学校、医療、司法、行政など)は機能停止しないように
定常的に維持することが最優先される。

続く
by yuko8739 | 2016-03-21 10:32 | 社会 | Trackback | Comments(0)

日本はこれからどこへ行くのか(内田樹)Ⅰ

(2016年3月13日内田樹の研究室より引用)

世界史的スケールで見ると、世界は「縮小」プロセスに入っていると
私は見ている。「縮小」と言ってもいいし、「定常化」と言ってもいいし、
「単純再生産」と言ってもいい。

「無限のイノベーションに駆動されて加速度的に変化し成長し続ける世界」という
イメージはもう終わりに近づいている。
別にそれが「悪いもの」だから終わるのではない。
変化が加速し過ぎたせいで、ある時点で、その変化のスピードが生身の人間が
耐えることのできる限界を超えてしまったからである。


もうこれ以上はこの速さについてゆけないので人々は
「ブレーキを踏む」という選択をすることになった。
別に誰かが「そうしよう」と決めたわけでもないし、
主導するような社会理論があったわけでもない。
集団的な叡智が発動するときというのはそういうものである。

相互に無関係なさまざまなプレイヤーが相互に無関係なエリアで同時多発的に
同じ行動を取る。今起きているのはそれである。
「変化を止めろ。変化の速度を落とせ」というのが全世界で
起きているさまざまな現象に通底するメッセージである。

そのメッセージを発信しているのは身体である。
脳内幻想は世界各地で、社会集団が異なるごとにさまざまに多様化するが、
生身の身体は世界どこでも変わらない。

手足は二本、目や耳は一対。筋肉の数も骨の数も決まっている。
一日8時間眠り、三度飯を食い、風呂に入り、運動し、酔っ払ったり、
遊んだりすることを求める。

それを無視し続けて、脳の命令に従わせて休みなく働かせ続けていれば、
いずれ身体は壊れる。
そして、いま世界中で身体が壊れ始めている。

戦争で破壊され、放射性物質で破壊され、ブラック企業で破壊され、
学校で破壊され、医療で破壊されている。
速度という点ではグローバル資本主義での経済活動が圧倒的である。

こうして経済活動は限度なく加速化してきた。
そしていま人々はそれに疲れ始めてきた。
しつこいようだが、ことの良し悪しを言っているのではない。

疲れたのに良いも悪いもない。
そして、「ちょっと足を止めて、一息つかせて欲しい」という気分が
全世界的に蔓延してきた。

私がそれをしみじみと感じたのは、昨夏の国会前のSEALDsの
デモに参加したときである。
国会内では特別委員会が開かれ、法案の強行採決をめぐって
怒号が行き交い、殴り合いが演じられていた。

一方、国会外では若者たちが「憲法を護れ。立憲政治を守れ」と声を上げていた。
不思議な光景だと思った。
私が知っている戦後の政治文化では、つねに若者が「世の中を一刻も早く、
根源的に変えなければいけない」と主張し、老人たちが「そう急ぐな」と
たしなめるという対立図式が繰り返されていた。

だが、2015年夏の国会では、年老いた政治家たちが
「統治の仕組みを一刻も早く、根源的に変えねばならぬ」と金切り声を上げ、
若者たちが「もうしばらくはこのままでいいじゃないですか」と変化を押しとどめていた。
構図が逆転したのである。

「変わり続けること、それもできるだけ速くかつ徹底的に」ということそれ自体が
「善」であるというある種の思い込みが私たちの社会をせき立ててきたが、
今その「思い込み」に対する疑念が生じてきたのである。

変化に対する膨満感と言ってもいいかも知れない。
逆説的な表現だけれど、変化することに飽きるということがあるのだ。
「変化しなければならない」という説教をエンドレス再生で聴かされているうちに
「そういうお前が変われよ」と言いたくなってくる。
それが生物の本性である。

続く
by yuko8739 | 2016-03-20 12:44 | 社会 | Trackback | Comments(0)

野生のハンターオオタカ

16日、午前10時半  PCに向かって仕事をしていたら、
いきなり ドンという音!
ベランダの窓に野鳥が ぶつかったのだと思い、
すぐにカーテン越しに ウッドデッキを見たら・・・

な、なんと大きな鳥!!!
鋭い黄色い目、黄色い足、毛並みは灰色、美しい!
脳震盪でも起こしたかと カメラを取りに戻って 窓を開けたら、
あっというまに飛び上り、庭に飛んで降りた。

よく見たら、ああ~~~獲物をつかんでいる。
多分その色や形は ヒヨドリだ。
そうか、獲物を襲って急降下して 我が家の窓にぶつかったのか。

私は 心臓がドキドキした。
50cmのすぐそばで 野生のハンターの鋭い目を見たのだ。
う~~~ん、すごい。
その直後に 獲物をつかんだまま 庭から高い空に急上昇していった。



すぐ PCで調べてみた。
野鳥は 猛禽類に違いない。
撮った写真と比べてみると、どうもオオタカらしい。

黄色いあの目と、目の上の白い筋状の毛の色がまさにオオタカ。
元々は この辺一帯は山だったのを宅地造成した高台の町で。

すぐそばには 猛禽類が小鳥や小動物を見つけるための
見通しの良い狩場(フィールド)もある。
ときどき 高い空を悠々と飛ぶワシやタカを 
散歩の途中で 見かけることもある。

でもまさか、コンビニ近くの住宅地、それも我が家のデッキで、
獲物を足でつかんだオオタカと すぐそばで視線を交わすとは!!!


超興奮した私、すごく鋭い眼だった。
生きるとは 喰うこと。
命の根源を 見せてもらった・・・

なぜ、わが家だったのか?
りんごや米など 野鳥のために餌を置いている私。
だからよく 野鳥がくる。
ヒヨドリもスズメも、シジュウカラも 常連客だ。

高い空から そんなことまで オオタカは見ていたのかな・・
犠牲となったヒヨドリは かわいそうだが・・・
これも厳しい自然の摂理か。

こういうことは2度と起きることではない。
多分 一生に一回。
自然の神さまが 私に見せてくれた奇跡の瞬間。

野生の猛禽類と 目と目が合うなんて、
すごいワイルドライフ!!!

感動した。
by yuko8739 | 2016-03-16 11:28 | 自然・季節 | Trackback | Comments(0)

2016どこかで春が・・・

日差しに 春の兆しを感じるこの頃。
春を探して 公園や山の土手をぶらぶら歩いた。

あった、あった!やっぱりね。
日当たりのいい土手に ふきのとうのつぼみがいくつも。
高速道路エリアなので 鉄柵があって立ち入り禁止の土手だけれど。
浅い緑のふきのとうは まさに先頭を走る春の使者!
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いいなあ、枯葉色の土手に この色を見つけると 胸がわくわく。
なんだか 自分まで小さな動物のように かけまわりたくなる。
やっぱり もう春がやって来たのか。

うれしい。
ほんとうに こころから 待ちわびたこの春。
2016年の冬が ゆっくりと去ってゆく。



そのあと、川沿いの公園に寄ってみたら なんと黄色い色がいっぱい!
福寿草の群落が あちこちに。
かわいいなあ。
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福寿草はキンポウゲ科なので 花がとても愛らしい。
そして 寒い風のなか おひさまを追うその姿が健気だ。
つぼみが なんともいとおしい。
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この日の最高気温は まだ3~4度、この寒さに耐えて
ひたすら パラボラアンテナのように 
日差しを 花のまんなかに集める。

典型的なスプリング・エフェメラル(春の妖精)
花言葉は永久の幸福、思い出、幸福を招く、祝福。
我が家の家族も退院して うれしい春となった。

光の天使は おひさまの色
やっと君に 会えた
金色の春
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歓びのときが いま やっとここに

まって まって いま、ここに

わたしのそばに・・・
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by yuko8739 | 2016-03-15 09:06 | 自然・季節 | Trackback | Comments(0)

復興の見直しを!

昨日、NHKスペシャル シリーズ東日本大震災
~26兆円” 復興はどこまで進んだか~をみた。

膨大で詳細なデータを 長い時間をかけて読み解き、
この大震災の復旧について 数々の大きな問題点を探り出した。
(以下、番組のデータより引用)

大震災5年目で インフラ整備、街づくりに14兆円、
被災者支援に2兆5000億円、原発事故復興再生に3兆6000億円
(東電求償分含む)、産業・雇用振興などに5兆円、計25兆円が使われた。

しかし各地で、インフラ復旧に 大きな誤算があったようだ。
宮城県南三陸町では、2億3千万をかけて整備した折立魚港に、
震災前は43人いた漁師が 今は4人しかいない。
この工事は 必要だったのだろうか・・・

同町では、基幹産業の復興を目指して、すべての漁港の復旧を整備した。
しかし、この「原状復帰」の考えは、今の時代には全くそぐわない。
高度成長の時代ではないのだ。

地方では 災害がなくても超高齢化の波が 押し寄せている。
急激に人口減少が 進む。
そのうえに震災が起きた。

人口減のすさまじさは 予想外だろう。
それならば、なぜそれがわかった時点で復興工事の
「見直し」をしなかったのだろう・・・

高台移転などの住宅再建には、1兆7756億円が使われた。
復興構想会議の議長、五百旗頭氏はこう語る。
「このように高台移転や盛り土の大規模工事を、想定しなかった。
こういう土木工事には、膨大なお金と長い時間がかかる。
その間に 人が離れてしまう」

インフラ整備だけでは 町は復旧しない
インフラ整備だけでは 人口減は止まらない。

高台移転工事やかさ上げ工事も 渋滞や作業員不足のために
大幅に遅れている。
岩手、宮城、福島では、完成した宅地や住宅にも1400戸分の
空き住居があり、計画を縮小した地区もある。

大船渡市では、大規模な造成も必要ない方法で宅地再建を3年で達成した。
コストも大幅に抑えられたのは、市内に点在する空き地に
宅地移転をする「差し込み方式」だったから。

宅地移転の費用は 差し込み式だと1~2000万円台
その他は、大規模造成だと 一戸あたりの5000万円~1億円だという。
この差はあまりにも大きい。

中小企業の再建にも 労働力が集まらない。
以前のような需要がないと インフラ(箱モノの整備)援助だけでは 
限界がある。

南三陸町では、整備した跡地に誘致予定だった企業が 来ない。
広い造成地は 潮干狩りの駐車場にするらしい。

働く場所 コミュニティ、産業がなくては町の再生はない。 
行政と企業、NPOや町内会などのつながりも必要だ。 
今後の環境やニーズにより 復興計画も見直しの必要がある。 

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さすがHNKの深い分析力に 脱帽した。
しかし、こういうことは、本来ならば政府が調査、分析、公開すべき
データではないのか。

この番組で指摘されたことは 今後真剣に検討されるべきだと思う。
震災後の高台の商業地に 企業はやってくるだろうか。
人は 集まるだろうか。

そして大船渡市のように 市内の空き地を利用する方法は、
なぜもっと多くの町で 検討されなかったのだろう。

失ったもののあまりの大きさに 立ち直れない人の多いことに
呆然となる。
どうか カウンセリングや老人や子どもたちの見守り活動にも 予算を!
by yuko8739 | 2016-03-13 12:45 | 社会 | Trackback | Comments(0)

復興なんて嘘だ!

あの震災から 5年という月日が流れた。
今も胸に消えることのない 津波と原発事故の恐怖。

大きなショックを受けて トラウマ状態になり、
笑うことや喜ぶことが しばらくできなくなった。

ただ、ぼおっとして 頭のなかには震災の映像が 繰り返されていた。
それまでの日本が 消えたことを思い知った。
もう、フクシマ以前には 戻れない・・・


あのときから5年経った今も 17万人の人々が避難生活のまま。
震災の死者は15894人。
行方不明は2561人。
震災後の関連死は、3407人。
仮設住宅の「孤独死」は、202人。

復興なんて 嘘だ。
ほとんどの人が 暮らしを取り戻せないでいる。
壊れた自宅に毎日通っても 無人の町。
以前は共に暮らした大家族も ばらばらで。
 
岩手県大槌町の「風の電話」には、多くの人が集まっている。
電話を握りしめて 無言の人、
お父さん、どうして死んだの?
どうして僕なの、と問う少年。

失くした人は かえらない。
失くした時間は 戻らない。
耐え難い喪失や空虚を抱えながら 暮らしの生業(なりわい)の手立てもなく。

仮設から 仮設へと転居は繰り返される。
人口は とめどなく減っていく。

除染が済んだという町に戻っても、人を恐れないイノシシや黒いビニールの
放射能汚染物質のそばで 人は暮らせるのだろうか。
若い人や子どもは 遠く遠くへ放射能から限りなく遠くに逃げる。

政府主導の大型土建工事ばかりが 威勢よい。
日本各地の地形を変えるほど あらゆる山土を崩して、
地形を変えたら 町は甦るのか?

オリンピックのために 途方もない予算を使うくらいなら、
夫や父親を亡くして 生活に困窮する母子家庭に
生活費を支給せよ!

土を高く盛ったら 人々は戻るのか。
否、それでも 人口は減ってゆくだろう。
あとに残るのは 高い平らな盛り土の上の過疎の町か。

原発事故の終息など 夢の夢。
そんなことは、いつの話だろうか、
40年後にも 「これから40年」となるかもしれない。

3.11、震災の時刻に合掌し 犠牲者の冥福を祈りながらも、
当事者(被災者)が 主体とならない復興に、
深いかなしみと憤りを 感じている。 
by yuko8739 | 2016-03-12 09:32 | 社会 | Trackback | Comments(0)