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カテゴリ:社会( 203 )

11月18日の夜、私は苫小牧発のフェリーに乗船した。
20数年ぶりに乗ったフェリーは 豪華なホテルのようで驚いた。
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DV被害者支援団体のボランティアメンバーとして、私は仲間数名と仙台をめざしていた。
幸いに波は静かで 穏やかな航海となった。

10数時間後の翌朝19日に仙台港に到着。
フェリーターミナルの建物には、3・11の大津波の高さが表示してあった。
7・2m・・・その高さに 言葉を失う。
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一見すると ほとんどが復興したように見えるけれど、バスで会場の仙台市民会館に
向かう途中にも 全壊に近い建物もあり、電燈のポールが 何本もなぎ倒されたままだった。



災害を乗り越えて Wake Up人権!―暴力の連鎖を断ち切るー
第14回 全国シェルターシンポジウム2011in仙台・みやぎ


全国から集まったのは150を超える団体、参加者は900名に上る。
大会の準備や協力のためのボランティアは 160人以上。
シンポジウムは 感動的だった。

あの地震、あの大津波が押し寄せた被災地仙台で よくもこのような全国規模の大会を
開催できたと、感無量の気持ちでいっぱいになる。
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「3・11のあと、準備に半年もかかるこの大会が 開けるのだろうかと思いました・・・」と言葉を詰まらせながら語る 仙台の実行委員長八幡悦子さんの言葉に 
感動して 胸がいっぱいになった。

DV(家庭内暴力)根絶を願って 日々絶え間なく 被害者支援を続ける熱い女たちが 
全国から集まった。仲間たちが こんなにいるなんて!
連帯感と励ましあい 支え合う絆を深く強く感じて 私はうれしかった・・・

基調講演「DV・性暴力被害女性への支援」 
阪南中央病院 産婦人科医師 加藤 治子さん

パネルデイスカッション
「災害を乗り越えて~女性支援の立場から~」
 
会が終了して 同じ会場で楽しく交流会が行われた。
テーブルには ごちそうが並び 最後には主催者の女性たちがピンクの法被姿で
替え歌で盆ダンス?を踊ったリして 楽しかった。
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小雨のなか タクシーでホテルに到着したのが9時半ごろ。
ひとり部屋で ゆっくり休めた。
by yuko8739 | 2011-11-21 22:52 | 社会 | Trackback | Comments(0)

希望への行進

9月19日、さようなら原発集会が、東京・明治公園で行われた。


<以下、中国新聞より抜粋>
~福島第1原発の事故を受け、作家の大江健三郎さんら著名な文化人9人が呼び掛けた
「さようなら原発集会」が19日、東京都新宿区の明治公園で開かれた。

福島県の住民を含む約6万人(主催者発表)が参加。
都心で「脱原発」の声を響かせ、市民に行動を呼び掛けた。

既存の原発の計画的廃止と新たな原発建設計画の中止、自然エネルギーへの政策転換を
目標に掲げ、呼び掛け人の事務局を務める原水禁国民会議などの実行委員会が主催した。

主催者によると、事故後の「脱原発」集会では最大規模という。
集会で、大江さんは「原子力エネルギーは必ず荒廃と犠牲を伴う」と指摘。

原発の存続へ危機感を表し、「私たちはそれに抵抗する意思を持っている」として、
集会やデモを通じて政財界に脱原発を迫るよう求めた。
ほかにルポライターの鎌田慧さんら呼び掛け人4人も発言した~



それぞれの呼びかけ人が 責任ある個人として「自分の言葉」で 脱原発の思いを  
6万人の参加者に語りかけた。
その言葉に 私は深く感動した。(ネットで視聴)

~私たちは原発に反対する意志をもっていることを、想像力を持たない政治家や
経団連の実力者に思い知らせる必要があります。
そのためにできることは、民主主義の集会、市民のデモしかないのです~


3・11の原発事故を受けて、世界各地、ドイツで、イタリアで、
市民によるさまざまな意思表示、民主的なデモなどや国民投票が行われてきた。

福島原発事故のいわば当事者である日本人が 今、初めて反原発の意思表示をする
大規模なアクションが こうして行われたのだ。


このような 大きな数万人という規模の反原発アクションは 今までなかったこと。
それにしては、大手新聞の記事の扱いは 小さすぎるのではないか。

歴史のうねりとなるかもしれないデモの記事を もっと大きな紙面を割いて
報道して欲しかったと思うのは 私ひとりではないと思う。 
その熱気を デモには出られない全国の国民に しっかりと伝えてほしかった。

私の知人Tさんが、北海道のわが町から 飛行機に乗って 明治公園に駆けつけた。
会場の人の波に圧倒された、とTさんは語った。
集会が始まって デモ隊が動き始めたのは2時間後。

歩くコースは 明治公園から3つのコースに分かれていたが 女性や子どもも多いデモなのに、警備が異様に厳重な印象だったらしい。

少しづつしか前に進めなくて、終わったのが午後7時とか・・・
暑さと空腹で 体は辛かったが、翌日 とんぼ返りしたTさんの 
その興奮は なかなか冷めないようだった。

これほどの国民の反原発の意思が、なぜ国の施策に影響しないのか。
と彼女は 怒っていた。

挨拶の大江健三郎さんの言葉にもあるように、
私たちには今、民主的なデモ行進という意思表示しか 許されていない・・・



私は つい先日に読み終えたばかりの本 京都大学原子炉実験所助教 
小出裕彰さんの著書「原発のウソ」に書かれていたことを 思う。
(以下、抜粋)

~いったい、私たちはどれほどのものに囲まれて生きれば幸せといえるのでしょうか。
人工衛星から夜の地球を見てみると、日本は不夜城のごとく煌々と夜の闇に
浮かびあがります。
建物に入ろうとすれば自動ドアが開き、人々は階段ではなくエスカレーターや
エレベーターに群がります。冷房をきかせて、夏だというのに長袖のスーツで働きます。
そして電気をふんだんに投入して作られる野菜や果物が、季節感のなくなった食卓を彩ります。
日本を含め「先進国」と自称している国々の人間が、生きることに関係のないエネルギーを
膨大に消費する一方で、生きるために必要最低限のエネルギーすら使えない人々も
存在しています。


そして私たちは「便利な生活を維持したい」という 一念に駆られて、原子力発電という
人間の能力では処理しきれない技術を進めるようになりました。
福島の事故は、それがいかに恐ろしいことなのかを見せつけてくれています。~
by yuko8739 | 2011-09-23 09:49 | 社会 | Trackback | Comments(1)

買い物難民

私の住む町は 歴史のある古い町ではない。
昭和40年頃に 全国的に多く造成された郊外型の新興住宅地である。
土地は山を削ってできた高台で、見晴らしは素晴らしいが、
冬は強風で雪も多く、寒い町だ。

市営、道営のアパートが多く、小学校は二つ、中学校も1校ある。
特別養護老人ホームもあるし、保育所もある。

風呂のないアパートも多いので、かっては2軒の銭湯もあったが、今は1軒となり 
その温泉銭湯も存続の危機を迎えている。
でもそうなればお風呂のないアパートの住民は どうするのだろう・・・

団塊の世代が家庭を持って子育てをしていた時期、子どもがあふれて町は活気に満ちていたが、
しかし今や、住民は高齢化し アパートは年数を経て劣化し、
犬を連れた散歩のシニア世代や 腰の曲がった高齢者の姿も多い町になった。



そんなわが町の中央には 唯一のショッピングセンターがある。
毎日のように 朝夕通った。
見慣れた店と見慣れたレジの人・・・家から歩いても15分で行けるそのスーパーが 
なんと 今年6月に 突如なくなってしまった・・・

その地元資本のスーパーは この何年か経営悪化がささやかれていたが、
ついに倒産してしまい、陸の孤島のような私の町に、買い物をするスーパーがなくなった。

この町にはコンビニが3軒あるが、日常生活の買い物は それで足りるわけもなく、
私は隣の町まで出かけて、毎日の料理のための材料を買わなければならなくなった。

閉店前から 大手のスーパーに店舗の誘致を交渉していたショッピングセンター(SC)の
役員たちは、トラブルを抱えていたらしい。双方で誘致の合意ができず 話が進まない。
そのうち 誘致交渉は決裂した。

市内の別の町でも 同じようなSCで 同じようなケースがあった。
大手スーパーの「儲け至上主義」の交渉を 激しく非難しながらも
空き店舗のままにしてはおけずに、悪条件でその誘致を受け入れざるを得なかったという。
その選択の苦悩を、泣きそうな顔で話す 小売店オーナーの話も聞いた。

交渉が決裂したことには 理由があると思う。
そして・・・私たち住民は 買い物難民となったのだ。

わが町のSCの役員や理事たちにとっても 辛い数か月だったろう。
お客の来ないSCの花屋さん、雑貨屋さんやお菓子屋さんなどの小売店は 
売り上げも 激減したことだろう。

地方紙もこの「買い物難民」について 何度も報道し、行政も動いたようだが、
変化はなかった。


買い物は 隣町のスーパーでまとめ買いした。
しかし、コンビニには売っていない お菓子用の生クリームとか
ちょっとしたものを 買い忘れると、もうどうしようもない。


ああ~~~~っ、しまった!と自分を責めながら 忙しいなか再び車で隣町へ。
そういうことが 何度もあった。

自分の町に もうスーパーがなく 自分たち住民は買いもの難民なのだという意識に
なかなか慣れない。何度も不便で悔しい思いをした。

車のある人、それを運転できる人は まだいい。
車を持たない人、運転できないこの町の多くの高齢者は 便数の少ない不便なバスで
買い物に出かけ、重い荷物をもって 半日かけて帰ってくるのか・・・

コンビニでは 店内で数種の野菜を販売するようになった。
私は 少しづつ みじめな気分が深まった。7月、8月・・・

風が強くて 寒い町だけれど 私はこの町を愛している。
自然のなかに 作られた町。
どこに野ぶどうが自生するのか 私は知っている。

散歩して15分で カタクリの群生地に行ける町。
広い池のある公園の湿地には ミズバショウが咲き、ザリガニが住んでいる。
ときに 夕陽が海に沈むバラ色の景色は 美しくて泣きたくなる。

人口9千人ほどのこの町に 日常の買い物をする店がないとは・・・哀しかった。
誰を怨むわけでもないが 不条理だと感じた。

そして 毎日の料理にも意欲が薄れ、買い物も減った。
困り果てて「どうしよう・・・」と よくため息をつくようになった。

我慢が限界になりそうだった9月1日、新しいスーパーがやっとオープンした。
9月1日、その日を待っていた。
開店したスーパーは 二つ隣町の地元資本のスーパーだった。
前よりずっと きれいになった。

品ぞろえもよく 陳列棚も使いやすくて、通路も広くなった。
買いものをする人が みんな うれしそうな笑顔だった。

さんま、ヨーグルト、豚肩ロース肉、みょうが、歯ブラシ、
ジャガイモ、バナナ・・・etc etc

気持ちよくて存分に買い物をしたが、当たり前だが仕入れる品物や設置場所が
変わっていた。まごついた。

そして私は なにかを失った感じが 払拭されたわけではないことに 気づいた。
「買いもの難民」という言葉が こころに重く刻まれて 容易に傷は回復しない。

この町の 何が変わったのだろう。
 
そして、私のなかで 変わったのは 何だろうか・・・



Mさんの庭で、ミズアオイ、茗荷の花
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我が家の緑のカーテン・朝顔開花
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by yuko8739 | 2011-09-08 13:18 | 社会 | Trackback | Comments(0)

敗戦の日

8月15日は 終戦というより 66年前の太平洋戦争敗戦の日。
15日はNHK「100年インタビュー」むのたけじさん。
夕方の「テンペスト」NHKスペシャル「円の戦争」
ETV特集「アメリカ発・福島原発の深層」・・・と珍しく テレビ三昧の私。

戦争をキーワードにした意欲作が 今この時期には多く放映され続けている。
NHKアーカイブスも戦争の番組が多い。

どの特集を見ても ひとつのことを言っているように思えてならない。
日本という国は 海軍と陸軍の対立、そしてその権力争いが原因で 
戦争という最も無謀な道に 突き進んだということ。

政府などあって無いのと同じ、警察も 新聞も同じだ。
軍の暴走と狂気を 誰も止められなかった。

果てしない犠牲のうえで どう考えても勝算のない 破滅への道を進んだ。
その無策と覇権意識、アジア諸国への蔑視、国民を恐怖で欺く体制。
初めから 天皇を神として 戦争の道具に使った。

後戻りできないから 続けたのだ。

私は憎む。
日本のこの歴史を。
人の命は なんなのだろう。
命はモノではない、取り返しがつかない。

二度と戻らない。
家族は失われ 解体する・・・


「戦場では強姦、略奪、放火は当たり前です。今も昔も世界中の軍隊が同じことをします。
人は人でなくなるからです。殺さなければ殺されるからです。
だから、戦争が始まってからでは すべてのことが もう遅いのです。
戦争は 始めてはだめなのです。決して戦争をしてはだめなのです。
始めないようにしなければ!」と 繰り返し声を大きくしたのは むのたけじさん。

彼は新聞人としての戦争責任を取り 終戦後すぐに朝日新聞社を辞めた。
そして 今96歳になっても 反戦の意思を あらゆる機会に
声高く伝え続けている。

声なき声に 耳を澄まそう・・・この季節。
平和は 私たち責任ある個人が なにかの行動を積み重ねながら 築くもの。
平和のために 行動する勇気を、力を、私は持ちたい。

どんなささやかな機会でも 自分の平和への意思や反戦や反原発の思いを「形」にする。 
そうでなければ そう遠くないいつか きっと「戦争」という悪魔は
しぶとく またやってくる。
黒木和雄監督は その足音を 数年前に すでに聴いていた。


そのためにも 66年前に起こったことを 私たちは知らなければならない。
知ろうと努力して 声を上げよう。

意味のない馬鹿げた戦争で 命を落とすなんて 二度とあってはならない。
誰にも そうさせたくないし そうしたくない。


政府の閣僚が繰り返す「歴史認識」の誤りにも 強く抗議の声を上げなくては。
為政者がこのようでは 戦争の足音が どんどん近くなる気がする。


過去から学ばなければ 私たちに 未来はない。
by yuko8739 | 2011-08-16 23:41 | 社会 | Trackback | Comments(0)

脱原発講演会

8月3日に「福島原発現地報告会」があり、友と参加した。
私は 311の大震災以前から 反原発は自分の根幹だと認識していたが、
大震災後は 特にこのような講演会などには 必ず参加するようにしている。

今回は、福島県双葉地方原発反対同盟代表の石丸小四郎さんが講演した。
石丸さんは40年以上も前から 原発を監視し 東電と闘い続けている。

普段はこういう講演会の参加者は 数十人程度だが 
今回は200人以上の 驚くほど多くの人が集まり 会場は熱気につつまれていた。

石丸さんは多くの参考資料を携え「未曾有の原発震災に直面して」
~福島からの現地報告~と題して 話し始めた。

結論を一番初めに 石丸さんはこう言い切った。
「原発ほど不条理で 世代間不公平があり 差別的なものは他にない」
「自殺が増えているのは福島だけ。この事故は夢や希望を根底から奪うもの」

「原発問題は 科学の問題ではない、それは印籠や宗教の問題だ。
資源がない日本という『印籠』を出せば、多くの日本人は思考停止する。
その上絶対安全だと言われれば すぐ『信じます』
信じるのは 宗教でしょう?」

「原発の放射能被害に最も鈍感なのは 60代から70代くらいの男性で、
最も敏感なのは 女性や若い母親です。特に子どもを持つ女性は、
原発には 厳しく反対している」

原子力政策の破たんのツケが 使用済み燃料プールだ。
本来は定期検査の際に取り出した燃料棒を 一時的に保管する冷却プールだが、
保管の燃料棒の間を狭くして 通常の2・4倍(4号機プール)も入れていた。

これは国の原子力政策の破たんで六ヶ所再処理工場が故障で動かず、
原発を使用済み燃料の貯蔵庫代りにしていたツケがまわったということ。

世界の常識では「放射能はできるだけ実現できる限り 低く」を原則とする。
(ALAP)=国際放射線防護委員会=

放射線はどんなに少なくても、それに比例して影響が表れる。


そして 石丸さんは、「私たちは戦い続けます」

1、1日も早い事故の収束と放射能の封じこめ。
2、放射能被爆から子どもたちを守る
3、福島原発10基の廃炉
4.日本のエネルギー政策の転換
5.東電、経済産業省。原子力安全委員会、原子力委員会、原子力安全・保安院、
  御用学者の責任追及
6.避難住民すべての補償、汚染地及び風評被害の徹底保障



終わりに質問を受けつけて 散会となった。
現地のひとならではの 知られざる情報もあったりして 会場は熱気と興奮に包まれた。

脱原発への思いを 新たにした講演だった。



今年6月15日に東京都内で「さようなら原発集会」と「さようなら原発1000万人署名」
というふたつの脱原発行動がスタートした。

この運動は内橋克人さん、大江健三郎さん、落合恵子さん、鎌田慧さん、坂本龍一さん、
澤地久枝さん、瀬戸内寂聴さん、辻井喬さん、鶴見俊介さんら9人が呼びかけたもの。

その「1000万人署名」のためのはがきを 講演会場で販売していたので、
私はそれを買い、「脱原発意思表示」のハガキに 自分の思いを綴った。

帰宅して 私は道知事へ、もう1枚は管首相へと ハガキを投かんした。

今こそ、意思表示のアクションを 起こさなければ!

   
by yuko8739 | 2011-08-06 00:20 | 社会 | Trackback | Comments(0)

ときどき・・・

日常の暮らしのなかで ときどき ぼおっとしてしまう。

いまだ狭くて 寒い避難所にいる 多くの方々を思えば。

すべてを一瞬で失うとは どんな気持ちなのか。

家族を亡くした慟哭、 耐えきれない痛み。

夜な 夜な 自分を責めて 夢のなかでも苦しんでいるかもしれない。

助かった命だけれど  ああ、光は 元気は まぶしすぎないか。

この長い停滞を 復興につなげる困難を思うと 私は ただぼおっとしてしまう。




ああ、これが夢なら。

被災した方々は 何度そう思って泣いたことだろう。

私も そう思って 今も泣く。

もう戻れない、3月11日前には。

もう決して戻れない、あの のどかで平和な海沿いの暮らしには。

すべてが その手のなかにあったのに。




放射能は やはりチェルノブイリと同格で。

いつも そのことを考えると 恐怖でからだはきゅっとなり。

このフクシマがある限り 復興はあり得ない。

放射能の被害に苦しむ人には 救いがない。

外国の学者が「この地震は予想できた」とイギリスのネイチャー誌に 論文を書くそうだ。

予想できた地震に なぜ備えなかった? なぜ同じことを 繰り返す???

ぼおっとなりながら、どこへ向けたらいいのかわからない 怒りがわいてくる。

私の魂は しだいに荒ぶってゆく。




どうして こんなことに。

永遠の問い。

ただ、そう繰り返す。



琵琶湖のそばに住む友が 美しい桜の写真を送ってくれた。

薄白い桜が 川のほとりで満開で 妖艶だった。

胸が切なくなるくらいに 泣きたいくらいに きれいだった。

この桜を咲かせる自然と。

あの獣のような咆哮をあげて、すべてを飲み込んだ311の黒い巨大津波と。
 
同じ自然のひとつの姿・・・



そう思うと ただ、そこで 呆然と立ち尽くす。

生かすも、そして 殺すも 自然。

その前で あまりに 非力な・・・




今、北海道に 1年で一番美しい季節がやってくる。

すばらしい奇跡のような自然のなかで 私はどうしよう。

去年と同じように・・・?




TVでよく聞く がんばろう!という言葉が心に刺さる、棘のように。

こんなときは 元気でいられない。

我慢しなくていい、がんばらなくてもいい。




それでも私は ただ あなたを思っています。

こころは あなたのそばに飛ぶのです。

ぼおっとしながら あなたとつながるのです。

多分、細くて長い糸で こうして 結ばれているのかもしれない、彼の地の人々と。



言葉が 見つからないので 迷子になりながら

どうしていいのか わからない私です・・・
by yuko8739 | 2011-04-16 15:27 | 社会 | Trackback | Comments(0)

この大震災が起きて日本人の素晴らしさに、世界中から称賛の声が上がっているという。
町全体が消えるような、その町の半分の住民が亡くなるような未曾有の災害のなかでも、
日本では暴動も騒乱も 起きなかった。

自身が被災者であるにもかかわらず、わが同胞は整然と弱者を守り、
規律を決め、他人のために乏しい食料を譲り合っている。

みな、自分のために何かをするのではない。
不便で窮屈な寒い避難所で 明るい笑顔で炊き出しをする女性たち。

被災者に優しく声をかけ 肩を抱きながら診察にまわり、
「この町は必ず復興する。それまで自分が手助けをしたい。
これが私の最後の仕事」と言う被災した60歳の医師。

子どもたちも ずいぶんと大きな力になった。
助け合うということがどんなことなのかを感じて 少し大人になったその笑顔。
荷物を運び、お年寄りの肩をもむ君たちの姿は 輝きそのものだ。

これは、どういうことなのだろう。
私たちは数多くの災害から 学んだのだろうか。

それもある。
しかし やはり日本人の特性として、非常時には弱者を守り 助け合う。
そういう日本人のDNAが あるのだと感じる。
それは世界の多くの国には 見られない光景なのだろうか。

日本人は 意思がはっきりせず、何を考えているのか わからない。
ずいぶんとそういうことが言われてきた。

しかし、どうだろう。
この整然として 困窮にも耐え忍び 運命を受け入れながらも
死線を超えていく この強靭さは。

津波が襲った町は まるでパニック映画のようで正視しがたい地獄だったが、
私が呆然とその映像を眺めて、言葉を失っていたころにも、
人々は町に出かけて 自分の家が建っていた場所から 片づけを始めた。

身内を亡くした悲しみを抱きながらも よろよろと のろのろと
手を休めずに作業を続けている。
まるで戦場のあとのような荒廃した景色のなかに、それでもこうして
動く人々の姿を見て、生きている人間を感じて 感動の涙が 何度もこぼれた。


今、道路も水道も電気も ライフラインというものが 少しづつ回復している。
これも被災者のことを思いながら 不眠不休で工事を続けている
多くの専門家の尊い労働のおかげだ。



NHKで放映された「無縁社会」の無縁死3万人という衝撃。
この国の「家族」ではなく「弧族」の人々の風景を 心が冷える思いで
朝日新聞の特集を読み続けたのは、何か月前か。

しかし、この未曾有の災害のなかでは 見知らぬ人同士が
大きな家族のように助け合い、思いあって暮らしている。

日本人は こういうことができるのか、私もこんなふうにできるのだろうか・・・

数多くの報道から 私も感じている。
「不屈の日本」
「感動の日本人」

同胞よ、私はあなたたちの姿から 生きてゆく勇気の本質と、
助け合うとは どういうことかを学びました。

あなたたちは尊く 誇り高い すばらしい日本そのもの。

その姿を見ていると もう不可能と思えた町の復興も 
信じられるような気がします・・・
すべてを奪った青い海を眺めながら 元通りの暮らしを
取り戻せるような気がしてきます。

あなたたち だからこそ・・・

暗い絶望の向こうに ほの白く希望も 揺れているようです。

不屈の日本人は世界中から讃えられながら、あの光にいつか辿りつくのではないのか。

あなたたちのそばに 私はいます。
あなたたちを 忘れません。

不思議なことに私は今、あなたたちを深く愛し つながっていると 
深く実感しています。

被災者の皆さん、あなたたちの懸命に生きている姿を見せてもらったので
私は 同胞がこうして生きているこの国を 愛しているのだと 
はじめて 感じたのです・・・


 
今朝の朝刊のこの言葉に また 涙があふれた・・・

朝日新聞3月22日天声人語より

逆境に張りつめた心は、折れも緩みもしよう。
震えるその肩を抱こう、手足になろうと、手弁当で集まる若者に救われる。
この世代を希望に、海辺の廃墟から日本の再建が始まる。
無念の魂たちに、もう一度生まれたい、住みたいと思わせる国を目指して。
by yuko8739 | 2011-03-22 09:02 | 社会 | Trackback | Comments(0)

私たちができること

誰かと手をつないで 夕陽を見ながら散歩した防波堤も、

春になって 花が咲くのを楽しみにして 球根を植えた庭も、

新鮮な魚とセリの声であふれていた 魚市場も、

我が子のように慈しみ 手入れをして 守ってきた水田や田畑も、



おむつを替えてから いっしょに昼寝をしようと思っていた母子も、

猫に餌をやろうとしていた ひとり暮らしのおばあちゃんも、

次のデートで 新しい口紅をつけようとしていた娘も、

今月の給料で 親に何か買ってやろうかな、そう決めていた若者も、

けんかしたけど 明日はあいつと仲直りしたいと思っていたおじいちゃんも、

明日が来ることを 信じて疑わなかった多くの人が、


すべて 消えた。

すべて、地獄のような 黒い波に 一瞬で飲み込まれた。
さらわれた。

もう2度と帰ることはない。


人と景色が 町が 消えた。

有史以来の地震で、千年に一度の津波だという。
特に 宮城沖の震源は 30年以内、99%の確率で地震や津波が
やってくることはわかっていたという。


避難訓練や防波堤があっても それでも 地形が変わるような地震は
予測も回避も 不可能だったのか・・・




地震から5日、やっと私に言葉が戻ってきた。
ショック状態で胸がつぶれ TVから離れられず 涙ばかりこぼれていた。
しかし、言葉は戻った。


まるで 戦争のような事態になった。
避難所は すべてを失って疲れて呆然とした 多くの避難民で
あふれかえっている。

生き延びた人々の「生きているだけでいい」「家族が無事であれば・・・」
このふたつの思いが 深くて大きなメッセージとして 私の胸にしみこむ。

いかに私は 多くのものに恵まれて 暮らしていたか。
家族はときには煩わしく 傍にいるのがあたりまえだった。
日常のなかでは つい ありがとうの気持ちも 言葉にしないまま・・・

そして電気は あるのが当たり前で。
こうしてブログを綴るのも 車で仕事や買い物に出かけることも、
部屋が暖かいのも 好きなときにお風呂に入ることも、
自分のベッドで眠ることも ありがたいというよりも ごく普通のことだった。

しかし、それは 今のこの時代に 日本人としての日常に生きていてこそ
可能なことなのだと、いまさらながら実感した。

世界の多くの国の人々が家もなく 食べられず 眠れずにいることを思えば。
戦争の最中にいて 爆弾や銃の恐怖のなかで 暮らすことが日常だとすれば。


電気や水、ガスやガソリンのない暮らしを わが身に置き換えては、
言葉もなくしてしまう自分・・・

非常時には 二重、三重の備えに守られていたはずの原発は、
どんな必死の対応をも あざ笑うかのように 次々と爆発が続いている。

有事の際にも 日本の原発は安全だったはずだが 炉心冷却という作業が
実施できない現実。

私は以前から 原発建設に反対してきた理由は まさにこういう事態が
起きる可能性があると 確信していたからだ。

原発の事故は 想定外ということは許されないのだが 増々危険度を高めながら
緊迫した状況が 続いている。

放射線が 漏れ始めている。
汚染は どこまで進むのか・・・



ひとつ、ひとつの命、ひとり、ひとりの人生がある。
失われた多くの命、人生に思いを寄せる・・・
深く 深く 冥福を祈ります。


尊い多くの死を 決して 無駄にすることなく、これからの困難な道を 
同胞として共に運命を背負いながら 同じ道を歩いていく。

「不屈の日本」と海外のメディアは日本人の行動に感動し マーケット(市場)も
そのことを 高く評価しているという。

計り知れぬ悲しみを超えて 多くの日本人が 寡黙な面持ちですべてを分け合いながら 
再建へ向けて 歩み出している。


今、私たちの祈りを 力にするために 国民にできうる最も有効な援助は寄付だという。
今日、私は寄付をしてこようとと思っている。

何もできそうもないが できることもある。


国民のひとりとして 再生に向けて 共に歩き出したい・・・
by yuko8739 | 2011-03-15 09:18 | 社会 | Trackback | Comments(0)

進化するパソコン

私の生活に パソコンという便利な機械との付き合いが始まってから、
もう10数年になるだろうか。

機械に弱い私は 初めは大いに緊張した。
少し文章を打つだけで肩はこり、首は痛み、
よくフリーズして動かない画面におびえて 真っ青になったものだ。

その頃は パソコンも夫婦共有だった。
よくわからない世界に 私がおずおずと歩み始めたのには理由があった。
私には やりたいことがあったのだ。
  
自分の思いを綴るmy新聞を作りたかった。
大それた望みに思えたが、ブログというものにも興味があった。
できるか できないか それはわからなかったが。

私の毎日のなかで メールチェックをすることが とても楽しみになった。
送り先は 横浜のSさんと親友Hのふたりだけ。

手紙魔の私は 書くことが好きなのでメールは大好きだった。
少しづつ キーを打つスピードも速くなった。慣れていった。

そして5年前に 初めて買った自分のパソコン!うれしかった。
パーソナルという言葉が象徴するように、あくまでも個人の使用には
個人の機械が必要なのだ、自由な時間に 自由に使うためには・・・

自分の機械を持てた私は 新聞作りのテキストを読み
「ゆうゆうタイム」と名付けて 発行した。
一歩づつできないことを できることに変えていった。
それは 大いなる興奮だった・・・

文を書くことも 写真を撮ることも 上手ではないが 好きなので
そして書くことは いくらでもあるので、こうして版を重ねてきた。
3月で51号になる。

休むことなく発行し続けてきたことは 私の大きな誇りのひとつかもしれない。

夢だと思っていたブログにも テキスト片手に2年前の秋に挑戦した。
「ゆうゆうタイム(ネット)」と、同じ名前でUPした。

日々思いをつづる場があると、このように 思いはあふれ出てくるのか・・・
泉のように とどまることをしらない自分の感情が自分でも新鮮で 不思議だった。

書くという趣味を生かせる 自分にとっては最高の方法だったと実感している。

そしていつしか仕事の原稿書きでも 始終この機械を酷使し。
2度故障して 修理を依頼し、2年前には 原因不明の決定的なダメージを受けた。
再セットアップで どうにか生き延びたが・・・


今年になって 画面が真っ暗になることが 頻繁に起きるようになった。
時々画面は 縞模様にもなる。
今では生活のあらゆる場面で この機械を手放せない私は 大いにあせった。

恐怖のあまり、私は必死で短時間で パソコン購入のためにネットで学び、
欲しいタイプの型番を決めて ネットショップに注文した。

ときどき真っ暗になるパソコンが 行ってしまう前に、
なんとかデータを移さなければ・・・と脅迫&興奮状態で。

それでも日々は なかなか多忙で。
母の入院や手術、仕事や家事のなかで、苦労して データの整理や移行を
し続けた。

今週始めから 少しづつデータを移行し、今年の写真も新PCに移した。
写真も「自然&サークル」「仕事」「ファミリー」とファイルに分けて
使いやすくして いい感じになった。

夜、新PCの画面が明るすぎるので それも調節し、
大好きなグーグルバーも貼り付けて、お気に入りにも
「仕事」「情報」「趣味」「買い物」と4つの分類ホルダを作った。

デスクトップにも 使用頻度が高いものを表示した。
好きな写真も貼り付けたが、新PCは画面の縦横比が違うので、
写真の貼り付けは 苦労した。(リサイズ必要)

マウスも ワンクリックに設定。
そして私は今、2月5日に到着した新しいパソコンで、
このブログ用の文章を打っている。

ワード2003から2010に変わった。
はっきり言うと 慣れない!極めて不便だ!

しかし 慣れるしかない。
まだよくわからないままでワード2010を、よちよち歩きのように使っている。
習うより慣れろ!と心のなかで繰り返しながら。

ああ進化するパソコン!
日々進化して、いつか私の手の届かないところに行ってしまうのではないか・・・

幸いに 旧PCは 患いながらも 健気に頑張って 私のそばで見守ってくれた。
その色、その形 馴染んだ使い勝手・・・君が永遠に動いてくれたなら・・・
別れることもないのに。

気心知れた長い付き合いの親友と 別れる寂しさ・・・

新PCは まだ私に打ち解けてはくれない。
若くて 美しくて 少し傲慢な君、計り知れない能力を秘めながらも、
クールな眼で じっと私を見つめる。

早く君と仲良くなって どんなことも分かち合いたいものだが、
私という人間を 君に受け入れてもらえるのかな・・・

さあ、明日はメールソフトをダウンロードしよう!

願わくば 迅速かつ快適に ウインドウズライブメールが、
私のネット生活を 長く支えてくれますように・・・




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by yuko8739 | 2011-02-12 23:38 | 社会 | Trackback | Comments(0)

弧族の国

朝日新聞 新年のシリーズ取材「弧族の国」が大きな反響をよんで 
第一部を終えた。
私もシリーズの初回から 深い興味を持って 読み続けてきた。

家族の機能が失われ この日本という国が みなひとりひとりの
「弧族」の国になっている現実を、さまざまな角度から照射する
意欲的に継続する 特集取材だ。

第一部では 今 最も「弧族」の傾向が強く現れている「男たち」の現実をルポした。
老親の介護を、老年となった男たちが背負う。
非婚の中高年男性の孤独と 自身の老後を若い他国の女性に託したい結婚願望も取り上げていた。

その苦しさと孤独。
親の介護のために 仕事を辞めた男たちにとっては、この不況社会の高い失業率の壁に
はばまれて、再就職は難しく。

生きていくためには、しかたなく死んだ親を放置しても 
遺体に手を合わせながら 親の年金で生きていくしかない現実があった・・・

そして、果てしない介護の辛さに 
「1日に何度も 母親を殺してやろうと思う」と 老いた男たちは泣く。
それなのに「助けて!」と言えないのだ、男たちは。



私は、思う。
一昔前の家庭が持っていた その機能の豊かさを、すばらしさを。

病気の親を介護しながら 子を育て 辛い家事をこなし 夫の世話に 
地域やPTAの仕事、時には 親戚の介護までも担ってきた家庭の女たち・・・

歯を食いしばっても 寝る時間がなくても 女がその全てを担っていた。
職業を持つこともなく 高い教育を受けることもないままに。

母は強し、女は強しというけれど、強くならなければ
どうやって生きてこられただろうか・・・

家庭の豊かな機能や地域の一体感は ほとんど女たちが黙々と背負い続けてきたのだ、
一昔前までは・・・
つまり女たちの犠牲的な献身が 今までは家庭のほとんどの機能の根源なのだ。

しかし 時代は変わる。
やっと女たちは自意識に目覚め 家を出て行くようになった。
教育を受け、職業を持ち 自己実現に向かって羽ばたき始めた。

家庭の豊かさを保っていたエネルギーは 外に向かうことになった。
このことを 家庭の崩壊というには あたらない。

女性力がベクトルを外に移し始めたとき、男性たちは家庭力をわが身に
つけなければ ならなかったのだ。
それが バランスというものだろう。

家庭と社会の活動を どちらも疎かにせずに 担うこと。
男も女も そのような生き方をすべきだった。
社会もそのような形に 変容すべきだったのだ。

しかし、社会は男が動かしているので 働き方は変わらない。
今までの男の働き方を 女たちにも強要する企業も 未だに多いのではないか。



職場をなくした中高年の男たちが増え、非婚の男性たちも増えた。
介護の必要な親も増えた。
しかし そこに女たちはいない。

建前に生き、本音を隠して生きてきた 誇り高い男たちは 
今 助けてといえずに 困難な状況を 孤独に生きている・・・

この国の「弧族」の深い闇のなかから これからどんな生き方が
見えてくるのだろうか・・・

しっかりと眼をみはって このシリーズ取材を見つめていきたい。

闇のなかにさす ひとすじの光を 探したい・・・


<現在 朝日新聞「弧族の国」第二部 家族代行 掲載中> 
by yuko8739 | 2011-01-26 13:10 | 社会 | Trackback | Comments(0)