ゆうゆうタイム

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カテゴリ:魂( 160 )

秋のなかを進む

朝夕は 寒くなってきた。
早足ウオーキングするときの 夜の冷気には驚く。
エンマコオロギやバッタの声が 草むらでうるさいほどだったが、
いつの間にかその鳴き声が少なくなり もう消えそう・・・
ときに夜半は 小さなストーブをつけたり 消したり。

それでも日中は まっ青な秋空の毎日。
夏っぽい日差しの強さもあって 汗をかく。
わが家の庭には 今秋明菊と吾亦紅がいっぱいだ。

春と間違ったのか 春咲くはずの金糸梅が咲き出した。
四季咲きの薔薇も 再び初夏のように咲き始めた。
雑草の茂る庭でも 好きな花たちは季節を忘れずに咲いてくれる。
ありがたい・・・

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

8月から9月
<読んだ本>
万引き家族                 ~是枝 裕和 著
100分de名著 河合隼雄スペシャル ~河合 俊雄 著
動物農場                  ~G・オーウェル著
戦争中の暮らしの記録(保存版)    ~暮しの手帖社
子どもの脳を傷つける親たち      ~友田 明美 著

<みた映画(DVD&WOWOW)>
ブランカとギター弾き     ~長谷井宏紀     監督
マリアンヌ           ~ロバート・ゼメキス  監督
灼熱の魂            ~ドゥニ・ヴィルヌーヴ 監督  
静かなる叫び         ~ドゥニ・ヴィルヌーヴ 監督


深い印象を受けたのは、「戦争中の暮らしの記録」
庶民の過酷で悲しい記憶が 綿々と綴られていて 毎晩胸を打たれた。
国民のリアルな戦争体験は「戦争遺産」として語り継ぐべきもの。

「万引き家族」は、映画ではわからなかったシーンの意味が理解できて
より深く映画の世界に入れた気がした。
「動物農場」は、農園の動物たちの人間への反乱と 
その後の体制を通して、権力を持つということの欺瞞や危険を 
寓話のなかで鋭く描いた。全体主義萌芽の本質か?

映画では、「ブレードランナー2018」があまりにもすばらしかったので、
ドゥニ・ヴィルヌーブ監督(カナダ)の作品を2本。
「静かなる叫び」09年の映画。モノクロ映画で カナダの銃乱射事件を描いた。
ドキュメンタリータッチで描くスリリンで魂を打つ衝撃の映画に 
ショックを受けるほど感動!カナダ映画賞で9部門受賞とか。 

「灼熱の魂」は同じくドゥニ監督の2010年の映画。
この物語の持つ脚本の力に脱帽。戦乱の地の地獄と運命を超えて
今を生きる私たちに 深い愛のなかで 運命を超える力を与える。
必見の名作だと思う・・・ラストでは驚愕し 言葉が出ないほど感動。

日本人監督がイタリア資本で フィリピンの映画を撮った。
「ブランカとギター弾き」スラムの女のこと盲目のギター弾きの
おじいさんの物語。実際にスラムで暮した監督の思いがあふれるような、
心の温まる 美しくすてきな映画だった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

悲劇は終わらずに 存在するが。
そのことと 自分が自分の選んだ生き方で
自分らしく生きることとは別のこと。
そう思いたい。

自分自身も昨日再検査の結果、ガンの疑いも晴れたので
とても うれしかった。
家族のなかに ふたりも重い病気だとしたら・・・と
これまでの2週間は 不安だった。

だからもう 自分の生活を再開する。
起きたことは 運命として 受け入れて生きるしかない。

俳句

吾亦紅こんな私でホントにいいの

鳥兜家庭に潜む殺意あり

秋刀魚焼く諍い深く胸に秘め

停電す漆黒の町に銀河湧く

案山子立つ金色の稲穂自慢げに
by yuko8739 | 2018-09-22 10:46 | | Trackback | Comments(0)

穴から出て~敬老の日弁当~

私は 穴から出ることにした。
穴から出ると 世界は変わらず美しかった。
危機が去ったということもある。
峠は 越えたかもしれない。

自分のなかで 相反する全く別の感情に引き裂かれそうだったが。
ありのまま、あるがままの私でいいのだと 
昨夜から やっと思えるようになってきた。
矛盾したさまざまな感情のあいだで 私は生きていく。

これでいい、自然のままで。
私のままで。
違う人間には なれない。
理想の形でなくても いい。


好きなことをする、かなしくても。
私の魂が喜ぶことは おいしいものを作って
だれかに食べてもらうこと。 
だから、料理からはじめた。

ずっと前からメニューも決めていた「敬老の日」のお弁当。
買物に行き、2日かけて仕込んだ。
さんまがおいしいから さんま蒲焼ご飯、小骨抜きは意外と大変・・・

ポテトサラダとボイルホタテの酢味噌和え、エビマヨ、
きゅうりとワカメの酢の物、太なます。

ふたりの母たちが うれしそうにこのお弁当を
食べている顔を思い浮べる。
なんだか幸せな気分になった。
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確かにどんなことが起きても 衝撃の瞬間が去ると笑えるようになる。
人は弱いけれど 人は強い。
私の苦しさ辛さに 寄り添ってもらえたので
穴から 出られたのかもしれない。 

改めて人には人が要る、と思う。
感情に寄り添い、共に泣いてくれる人が私には必要だった。
運命の過酷に 怒ってくれる人が必要だった。
そうしてもらって我慢していた自分も 泣けるようになった。


また、料理を作ろうと思う。
難しいことは まだなにもしたくない。
ボランティアも休んだ。
辛さは かなしみは消えたわけではない。

今は秋の風と共に 淡々と生きている。

俳句
空虚な日花買う我に鰯雲

先日米農家でコメを買い、おいしくて新鮮なビニールハウスの
トマトやナス、とうもろこしをもらった。
田んぼには 無数のバッタやかわいい青ガエル、アゲハの幼虫も!
世界は美しく 命に満ちている!!!
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by yuko8739 | 2018-09-17 12:58 | | Trackback | Comments(0)

穴のなか

私は今 何年かぶりに 深い穴を掘っている・・・
なにも聴こえず なにもない穴の底で ただ膝を抱えている
運命の残酷に 身を焦がしながら

暗くて深い穴の底で 自分が壊れずにすみますようにと
祈っている

こういうことを なんというのだろうか
晴天の霹靂と いうのだろうか
自分の人生に 暗くて冷たいものが 襲いかかってきた。
日常が 消えた

だから穴を掘って 逃げ込むしかない
なにも聴こえないし 誰もいない穴のなか
時間が経ったら 出てゆける
でも今はまだ ここにいる


神さま、そのことは私が受け入れるべき現実なのですか?
あまりにも 酷いではありませんか
なぜ?
なぜ?
なぜ?

重荷を もっと背負えと?
もう私にも 力はそんなに残っていない
自分を保つのだけで 精いっぱいです

そんな穏やかな日常を 運命の尖ったナイフが切り裂いた
取り戻せない時間・・・
日々の穏やかな幸せが 消えていく
 
いやいや、失ったものを追わずに、
今は今のことだけを思おう

それしか考えない
先のことなど わからない
未来を思う力は 今の私にはない
暗くて静かな穴のなかで 今だけを思う
今のこのときだけを 思う



私には こういう人生が また与えられた・・・
今までもずいぶん さまざまなことと闘ってきた。
苦渋と自責、孤立と孤独。
人生の終わりの時期に 再び問われ 自分と闘うことに?

この運命、この人生からは 逃れるすべはなく

今少しだけは ここにいよう
母の胎内のような 暗い穴のなかで・・・

  
by yuko8739 | 2018-09-14 12:55 | | Trackback | Comments(2)

河合隼雄さんと再び出会う2

その後は、さまざまな他者との出会いを鏡にして、
あるがままの自分を自分自身で 受け入れられるようになったと思う。
それまでは 困難だったことだが・・・

ワークショップで出会った言葉の数々。
「他者は自分を映す鏡」
「人=自分以外の人=がいなければ、自分にも成れない」。
「人生に無駄なことなどない」
そのときはよくわからなかったそんな言葉の数々が、
今では 私の信条になった。


今回の「100分de名著 河合隼雄スペシャル」は、
講師は河合隼雄氏の子息で 同じくユング心理学者の河合俊雄さん。
俊雄さんは眼が大きく整った顔立ちで 鋭い印象を受けた。

父の存命中は、父と息子はなにかと確執もあったに違いない。
同じ道を行く父と息子とは 大概そういうものだろう。
しかし今は父の死により 息子は変化したのか。

魂が近づくというより、息子の魂のなかに父は脈々と
さまざまな形で 生き続けているのだろう。
番組をみていて そんな気がした。

「ユング心理学入門」、「コンプレックス」、「昔話の深層」、
「中空構造日本の深層」、「母性社会日本の病理」、
「心理療法序説」もなにもかも 私は読んでいるので、
そのお話しを俊雄さんの解説で 魂と耳に懐かしく聴いた。

感じたのは父隼雄さんよりも 俊雄さんはシャイな方。
偉大な父の亡きあと、同じ道を行くのは
大きな葛藤があったと思う。
憂いを秘めた大きな瞳に そんなことを感じた。

番組が終ると すぐにNHKのテキストを買った。
テキストを読みはじめてすぐに 河合俊雄さんの
文章の見事さに気付き、ほれぼれした。

読みやすくてわかりやすかった。
父の著作や思想を 息子は深く味わい、それを正しく
美しく言葉に紡いでいる。
そのことに感動した。


8月は 戦争の報道を見逃がすまいと録画しては ほぼすべての番組を
見ては、怒りにふるえ 涙を流した私。
夜はベッドのなかで暮しの手帖社の「戦争中の暮らしの記録」の、
言語に尽くしがたい庶民の飢えや空襲、学童疎開の塗炭の苦しみを 
切ない思いで 読み続けた。

しかし今9月になって 8月の戦争の悲嘆と苦しみから、
やっと解放される気がした。
それほど戦争をリアルに感じた2018年の8月だった。


NHKのこの河合隼雄スペシャルのテキストを読みはじめて、
30代の自分に また出会った気がした。
孤独でどう生きたらいいのか わからなかったあの頃の私。

今も孤独だが、「選んだ孤独は よい孤独」と言える。
どう生きたらいいかというと、「あるがまま」に。
孤独のままでも 生きていけると思う。

人と自分が違うことさえわかっていたら 何が起きても
そんなに怖くはない。
あなたは そう感じるのですね…それでいい。

私とあなたは 違ってもいい、それはあたりまえのこと。
でも共感できたときには 大いに喜び感動する。
それが 私が人生から学んだ一番大きなこと。


テキストの最後に 河合俊雄さんの言葉に 希望と勇気をもらった。
河合隼雄さんが強く感じていたことのひとつは、
日本では「男性論理を持った女性の力(パワー)」が必要だということ。

耐える女性ではなく、「意志」し、行動する女性を昔話(炭焼長者)の
なかに見つけて 河合隼雄さんはこう言う。
「このようなすばらしい女性像は、日本の昔話に特異的ではないかと
思われ、従って、日本人の意識を~男女を問わず~示すのに
ふさわしいものと思われる。中略

西洋の近代自我の行きづまり状況に照らして考えるならば、
日本にのみとどまらず、世界全体的においても意味を持つ象徴として
このヒロイン像を提出してもいいのではないかとさえ思われるのである。
それにしても、日本の民衆のこころは素晴らしい女性像を
生み出したものである」
~河合隼雄著「昔話と日本人の心」より引用。

ユング心理学から出発した河合隼雄さんは、日本の昔話や神話、
仏教と深い出会いをする。
その体験から 彼はクライアントとの人間関係を
非個人的な水準にまで広げて持てるようになると、
その底に流れている感情はいとしいという感情も混じった
かなしみだという。

私はこの言葉にも 深く魂が動いた。
「いとしい」「かなしみ」
これは 魂と文学の共通のエッセンスでもあろうか。

過日 こんな言葉にも出会った。
朝日新聞「折々の言葉」鷲田 清一編より
~「存在しないもの」は文化の違いを超えて、
誰にとっても存在しないので、それがもたらす欠落感や
悔恨や恐怖や不安は共有できる~        内田 樹

慣習や財産のように、見えるもの、所有できるものは、
異なる文化の間で共有するのが難しい。
が、見えないし所有もできないけれども、人が生きるうえで
真に拠(よ)り所としてきたものを失ったことの
悲愁は共有できると、哲学者・武道家の内田樹は言う。
だから世界文学の多くが「喪失についての物語」なのだと。

台風一過の青空を眺めながら そんなことを思っていたら、
翌日早朝に 地震が来た・・・
by yuko8739 | 2018-09-08 12:21 | | Trackback | Comments(0)

河合隼雄さんと再びの出会い1

NHKの教育TVで 私の大好きな「100分de名著」という番組がある。
7月のテーマは「河合隼雄スペシャル」
私の本棚には 河合隼雄さんの著作が数多くある。

人生に戸惑うことが多かった30代はじめの頃に出会った、
河合隼雄とユング心理学、そしてカウンセリングの臨床心理学に
深く傾倒して 読んだ本が並んでいる。

私は狭いアパートで3人の子どもを育てる多忙な日常のなかで
子どもたちを寝かしつけると 午後10時からはじまる
NHKの教育番組「人間大学 日本人のこころ」(講師:河合隼雄)に、
かじりついた。
テキストを広げ、ノートを取りながら 河合隼雄さんの講義を聞いた。

フロイトはなんとなく知っていたがく、初めて出会った「ユング心理学」
河合隼雄さんが解説した、母性社会や中空構造などのキーワードによって、
さまざまな疑問の答えを 得たような気がした。

どうしても埋まらなかったクロスワードの空白に 
文字がぴたりとはまるように、私は興奮した。
学ぶ喜びで わくわくした。

自分や自分の人間関係にも 河合隼雄さんの言葉は
当てはまる気がした。
そしてなによりも 自分のこころの謎が解ける気がした。
自己実現(個性化)への過程を 私は歩みはじめたのかもしれない。
数年間、心理学や臨床心理学の本ばかり読み続けた。

河合隼雄さんが 北海道に講演に来たときは、
お話を直に聴けるチャンスを逃がすまいと、3人の子どもを預けて
小樽や札幌に出かけては、最終電車で帰宅したものだ。

その後私は自分の町でロジャーズ派の「カウンセリング研究会」に入会。
エンカウンターグループのワークショップに熱心に参加。
数泊のWSでは 出会いの不思議と困難、そして感動もあった。

毎月の例会では I先生がものの見方や感じ方で
人生が変わるのだと語り、他者を受容する共感の豊かさ、
自分自身の生きる力について 熱く語ってくれた。

しかし私はその頃も今も変わらず こころのなかの師は 
間違いなく 河合隼雄さんだと感じていた。

2007年 文化庁長官だった頃、高松塚古墳の壁画問題で
多忙と心労、ストレスの故か、河合隼雄さんは79歳で亡くなった。
あのときの茫然自失を 私は忘れない。
もし今も存命されていたら どれほどの業績を遺されたか・・・
悔しくてならない。


もしいつか 天の国で会ったら・・・
「しんどいこともあったけど、なかなかうまく生きてきはったなあ」と
あの人なつこい笑顔で 褒めてくれそうな気もする。

「ふたつよいこと、さてないものよ、なあ・・・」
by yuko8739 | 2018-09-05 12:52 | | Trackback | Comments(0)

恋するこころ

誰かを好きとか そういうことではない。
ただ、恋のようなときめきは 私の日常にあふれる。
本や映画や、1枚の絵、思い出と共にあって感情を
かきたてる懐かしい曲の数々。

道行く、名も知らぬすてきな人たち。
年を重ねた女性が しゃんと背筋を伸ばして初夏を行く。
「いいなあ、あのヘアスタイル」
「ストールの色がすてきだなあ」・・・
お洒落なシニア世代の男性を眺めるのも こころ弾む。

ふり返って 何度も見てしまう。
ちょっと ときめく。
ドキッとする。

映画のポスター、新聞の写真、優美なコマーシャル、
すてきな言葉は 私を別の世界に連れて行く。

先日、朝日歌壇で どきっとする短歌に出会った。
もう一度好きだと言ってくれないか裸足で海に駆け出すように                     八幡浜市 木下まゆみ
こんな短歌が、胸の奥深くにぽっと火をともす。

時の洗礼をうけてなお 魂の奥にある切ない「恋するこころ」
私のなかには 優等生の幼い私も どん底の孤独のなかで
恋した10代も、生きることに戸惑った30代も
どんな私も、存在する。

だから色とりどりの経験や 美しい感情に満たされた 
今のこの自分の魂はさまざまに感応して なおさら愛おしい。
だから こころは恋する・・・

人生のときめきは、一生消えない。
これこそが 生きる証。

選んだ「よい孤独」と、それと共に「恋するこころ」は 
私の大切なエッセンス(本質)なのかもしれない。
(フランスのことわざ「選んだ孤独はよい孤独」)
by yuko8739 | 2018-07-02 09:24 | | Trackback | Comments(0)

厄介な人

なんでも「自分だけ、自分が一番」、そう思う人がいる。
言いかえれば「自己中」自己中心的。
そして、たぶん誰にも負けたくない。
家族を 自分の配下に置きたがる。

そして自分の意思や感情を阻害されると 激しく反応する。
適正な反応ができずに 過激な反応になってしまう。 

考えてみると、厄介な人のその「攻撃」は「防御」なのかもしれない。
単純に考えると、スポーツと同じように「攻撃は防御」
勝負でもあるまいし、なぜ、「過剰防御」してしまうのだろう。

そこには一種の「恐怖感」があるのではないか?
結局、厄介な人はきっと怖いのだ、自分の必死の外殻を破られ、
侵入?されること、自分の世界を保てなくなることを恐れている。
必死にガードしている。

自分の価値観が否定されることを 恐怖している。
だれも、そこまでのことなどするわけがないし、
そんなことを考えてなど いないのに。
だいたい、人は皆同じことを感じたり考えたりするわけもない。

大げさなのだ、大事(おおごと)にしているのは自分なのだが。
だからこころもからだも緊張している、いつも臨戦態勢。
その「過剰な怒りや反感、激した感情」は、確実に人間関係を阻害する。

周囲は不可解な反応に当惑し、ときに怒り、
切れない関係だと、嫌われる。
そのうちに、厄介な人と諦められる。


誰も 他人の思いや感情を変えることはできない。
ある種の気づきによって 自分だけが自分を変えられる。
難しいことだが、自分を変えるためには
長いこころの旅が必要だ。

例えば、厄介な人の成育歴のどこかに なにかの原因が
あるのかもしれない。
反応のひとつとして そうなってしまうのだとしたら、
その人は もしかしたら「被害者」かもしれない。

厄介な人は 私の周りにいる。
もしかしたら 私も知らないうちに厄介な自分のひとつやふたつは
抱え込んでいるかもしれない。
だから寛容に、と思う。
他人にも 自分にも 寛容に。

自他共に、許し、許される社会であれば 厄介な人も
「まあまあ、またはじまったな・・・」くらいで終わる。
周りの人に、それはその人の癖のようなものと、思われたら、
厄介な人は、厄介なままで生きてはいけるが、
決して好かれることはないだろう。

許されることが重なって、厄介な人の感情が
静かに収まってくれれば いいけれど。
本人は「許されている」などと思うはずはない。

人生がいつも「臨戦状態」だなんて辛すぎる。
見張りも、重装備も大変だ。
人生は軽く 軽やかに こだわりを捨ててケセラセラ、
赤塚不二夫のように「それでいいのだ~」と歩きたいなあ。

そのためには 自他共に「許し」の道を 歩く。
年齢を重ねて そう言える今。
by yuko8739 | 2018-06-18 10:23 | | Trackback | Comments(0)

私という「こわれもの」

ある人が脳梗塞で 入院している。
大病に備えて 健診や検査を欠かさなかった。
からだの不具合があると すぐに病院に行っていた。

病室で 麻痺したその人の片側の手をさすりながら 涙がこみあげそうだった。
いつかはこういうことが起きるかもしれないと 誰だって予想している。
しかし予想と現実は 全く違う。

本当に「わが身」に こういうことが起きてしまった。
そのショック、受け入れ難さ・・・
その人も ただただ呆然としているようだった。

話すことは可能で 会話も成立したが。
神さま、なぜこの私が?
そうとしか 思えないだろう、きっと。

完璧な家事の達人で 料理も上手だった人。
手際や段取りの見事さを いつも尊敬していた。
いつも さまざまなことを見習った。
その人が・・・

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誰だって 明日は知らない。
だから「見知らぬ月日は美しい」
でも、現実は非情だ、このように酷い運命が突然やってくる。

もし、自分だったら 死にたいと思うかもしれない。
それでも 死ねない。

いつしか現実をすべて受け入れて 闇のなかにも
かすかなろうそくのような ひとつの灯りを 
見つけられるのだろうか・・・
希望という名の 淡い灯りを。

人生に起きることには みな意味があると 私は知っている。
これまでの人生の苦しさ、かなしさには すべて私が名付けた。
起きたことの その意味も分かった。

しかし、しかし、もし私がそうだったら、体が不自由になったら、
きっと私は 意味など探せない。
嘆き悲しみ、神を呪うだろう。
だれかれとなく、激しく羨むことだろう。
人生の意味など、ぶっ飛んでしまう。

脳の疾患によって言葉さえも失い、なにも発信できなくなった私は
どんな荒野を 彷徨うのだろう。
誰もいないその孤独の荒野から なにを どんな方法で
発信するのだろう。

すべてを失ってなお 人の尊厳は輝きを保つことができるのだろうか。
そんな偉大な人々もいる、多くはいないが少なくはない。
けれど。
しかし。
私はどうなのだ?

そのときが来たら、私はどうなるのだろう。
「失うことは 得ること」などと思えるだろうか・・・

すべてを失っても もしかしたら自分自身との対話は
可能だろうか。
いつでも 私は自分と対話し続けるだろうか。

脳のなかで、魂の深みで。
誰も知らない 密やかな場所で。

映画「ジョニーは戦場へ行った」のジョーのように。

救いは あるのだろうか。
by yuko8739 | 2018-01-20 11:39 | | Trackback | Comments(0)

デンマーク人の幸せ「ヒュッゲ」

先日、NHKBSで コウケンテツの
「世界幸せゴハン紀行~デンマーク~」をみた。
何気ない日常の幸せを大切にする、デンマークの人々。

デンマーク語で「居心地がいい時間や空間」
「感情的に抑圧されることなく、穏やかに喜びを感じること」。
そんな時間を「ヒュッゲ」という。

この言葉は、友人の娘Mちゃんが 昨年暮れに「ヒュッゲ」を
目指していると伝えてくれて そのときに初めて聞いた言葉。
新年の特集で 朝日新聞でも「デンマーク人の幸せ」という記事で
幸福度世界一という国の、この言葉を解説していた。


例えば、NHKの番組では 家に伝わるおいしい食べ物を
家族や親せきが集まって みんなで作って一緒に楽しみながら食べる。

自宅の緑豊かな庭で 自分で育てたハーブを使い、地元産の豚肉や
自分の家で飼育した鶏の卵や野菜を使って みんなで料理する。

素朴な地域の食の滋味が 家族みんなの笑顔と共に伝わる。
典型的な「ヒュッゲ」なひととき・・・
誰かがひとりで大変な思いをして もてなすのではなく。
誰もが楽しそうになにかを作る、それはとてもすてきなこと。

小学生の女の子も デザートのロールケーキを焼く。
おばあちゃんもサラダを作る。
みんなが みんなのために 心を込めて料理する。
そのために集まる。
食を中心にした 豊かなおいしい時間、これも「ヒュッゲ」

陽の当たる出窓に寝そべって 終日お気に入りの本を読むのも「ヒュッゲ」
自然を楽しみながら 森のなかできのこを探すのも「ヒュッゲ」
暮らしのなかに たくさんの「ヒュッゲ」がある。
いわば、「足るを知る」「今を楽しむ」のが デンマーク人気質だという。

あるもので 満足する。
ないものねだりはしない。
だから「今」を深く味わい 満足するのだろう。

ささやかな幸せや歓びを大切にする、デンマークの人々は 
幸福度も世界一なのは あたりまえかもしれない。
日々の暮らしのなかに それは無数にあるのだから。

あわただしくスマホの虚空で さみしい電波を受発信する我ら
日本人には「ヒュッゲ」の哲学から 見習うことが多いだろう。

私自身は「神は細部に宿る」「知足」ということの信者なので、
些細なことごとに 幸せを感じる名人かも?
どんなことにも なにかしらのメッセージを感じている。
しかし今度からは つい「ヒュッゲ!」と 叫びたくなるかも?
言葉に魂は宿るから。

さて、極寒の地(デンマークと北海道は共通!)で、 
やがてくる春の兆しを待ちながら 温かいストーブの燃える部屋で、
ふわふわロールケーキなど焼いて 紅茶を淹れて友と語りましょうか。
こういうのも なかなかすてきなヒュッゲなひととき!

明日は友達から お誘いを受けた。
きっと これもすてきな1日になるだろう、とても楽しみ。

たくさんの大事な人たちから 次々といろんな形で
「退職お疲れさま!」の メッセージをもらい続けている。

なんて幸せものだろう・・・と感謝の思いが 
魂のなかいっぱいに 広がっている。
by yuko8739 | 2018-01-16 23:42 | | Trackback | Comments(0)

言葉を生きる糧として

今朝の朝日新聞グローブに、とてもうれしい言葉が載っていた。
それを読んで なんだか自分の未来に 希望が湧いた。

「100歳近い人の心には、70代ごろまでの人とは異なる『幸福感』が存在する」
「老年的超越」と呼ばれる精神世界はどんなものなのか。
この言葉はスウェーデンの社会学者、ランス・トルンスタムが
1989年に提唱した概念。
85歳を超える超高齢者になると、それまでの価値観が
「宇宙的、超越的」なものに代わっていくという。

思考に時間や空間の壁がなくなり、過去と未来を行き来する。
自己中心性が低下し、あるがままを受け入れるようになる。
自分をよく見せようとする態度が減り、本質がわかるようになる。
そんな特徴があるという。

仕事を引退し、体力が衰え始める60代~70代では、
できないことが増えることに、不安が募り、鬱々とした気持ちが
高まるが、85歳以上になると超我する傾向が高まるという。
大病をすると強まる傾向もあった。

「60代~70代の人は、超高齢になった親の様子の変化に
戸惑ったり、いら立ったりすることが多い。
老年的超我の存在を知ることで、家族や介護職員の接し方も
変わってくるのではないか」と研究員の増井幸恵さんは話す。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今私は60代。
「自分の老齢化」を受け入れがたい 典型的な年代なのだと思う。
日々できないことが、増えていく。
こんなはずでは なかったはずなのに・・・
なかなかに厳しい現実に ときどき心が折れそうで。

このかなしさの加速が、今後は続いてゆくのかと思うと、
心は嘆き苦しむ。

年齢を加えるのは足し算。
さまざまな世代の私を この魂は抱きしめている。
だから豊かになっている、魂は。
でも、肉体は死に向かっている。
このアンビバレンツを どうしようか。

できないことも 増えていく。
私って こんなに力がなかったのかな・・・
ビンの蓋も開けられず、イカの皮をむくのにも難儀する。
手先も不器用になり、料理の段取りも下手になった。

当たり前なのだが、何でもできた「自分」という記憶があって 
できない自分を ときどき許せなくなる・・・辛い。
できない自分を もっと当たり前に思わなくては・・・


しかし、88歳になる母は ケアハウスで男友達もできて
いつも笑顔で明るい。
あんなふうに自分はなれそうもない、そう思っていた。

でも、もしかしたら 私にも「老年的超越」という時期が
訪れるのか・・・これは大きな明るい希望だ。

しかし・・・よく考えてみると 私がその年齢まで生きている保証はない。
老化に苦しみ それを嘆いているうちに病気でこの世を去るかもしれない・・・
でも もし、「老年的超我」を迎えられたら なんて幸せだろう!

そうなったときに、60歳、70歳の後輩たちに向かって
私は言おうと思う。
「長生きしたら こんなにすてきないい風景が 見られるよ!
 この世界まで、どうか生き延びてね!
ここまで来てね、待ってるからね」と。
そうありたいものだが、現実はどうだろう。


長生きしなくても、今の自分を変えられるのは 自分だけ。
今も私は思う、からだの不自由があっても 痛みがあっても
それでも 今がいちばん幸せと。

深くて 美しい世界を見ている、今も。
あるがまま、本質を見つめよう、今も。

そして長く生きて 今以上の幸福を手に入れたら、
それは 神さまからの最高のプレゼントだと 喜ぼう!
by yuko8739 | 2018-01-07 14:43 | | Trackback | Comments(0)