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「ホッブスとカントのメッセージ 弱者が生きづらい時こそ」

先日、朝日新聞の「政治季評」として、政治学者の豊永郁子さん
(早稲田大学教授)が書いていた文章が深く心に残った。

(政治季評)ホッブズとカントのメッセージ 弱者が生きづらい時こそ 
豊永郁子     

弱者は生きづらい。何らかの困難を抱えているから弱者である上に、
弱者であることによる困難を負う。
一つに、尊厳を保つのが難しい。

何しろ世には広く「弱肉強食」が言われている。
弱者は常に脅されているようなものであり、
萎縮し、卑屈になる。

弱者への支援や配慮も、強者からの施しと解され、
強者の一存でいつでも改廃され得る(先月行われた、
唐突で根拠の乏しい、生活保護費の切り下げなどは好例である)。

弱者は強者に負い目を感じ、翻弄されることに慣らされる。
この弱者の尊厳が困難である状況に一石を投じてくれるのが、
17世紀英国の哲学者ホッブスだ。(中略)

ホッブスが言う平等は、人間の総合的な能力の平等である。
つまり、人間の間には大した能力の差はないということだ。
これには驚かされる。

規範として、希望として、平等を論じる思想は多数あっても、
事実としての平等を告げる思想は稀だ。
さらにホッブスは「最も弱い者が最も強い者を殺すことができる」ことを、
人間のそうした平等の根拠とする。

ギョッとするが、そうかもしれない。
ホッブスが好んで引く旧約聖書では、少年が大男を倒し、
か弱い女性が英雄を滅ぼす。
これらは勇気や奸智の物語である以前に、人間の平等を伝える
物語であったのだろう。

要するに、ホッブスはこう言っているようである。
「弱者と強者は平等であり、強者は弱者をなめてはいけない」。
これは「弱肉強食」の主張を封じ、弱者に尊厳を取り戻す論に他ならない。
さて、弱者に生じるもう一つの困難は、しばしばその人生や生命の価値が
問われる局面に置かれることだ。

弱者に限らないが、ある人が生きていることの価値が、その人自身によって、
または他の誰かによって、否定されることがある。
これは最悪の場合、自殺や殺人につながる。

ここで「待った」をかけるのが、18世紀ドイツの哲学者カントだ。
カントの論理によれば、むしろこうなる。
価値がないと思われる生を生きる行為こそ尊い。
その行為が、生きるという義務に従うことの道徳的価値を持つからだ。

カントの議論では、義務にもとづく(従う)行為には格別の意味がある。
それはただその義務のためだけに行われる行為であり、人間に純粋な
「善い意志」が存在することを示す。
生きるという義務にもとづく行為は、従って、生きることの意味や目的が
見出せない場合にこそ、行われ得ることになる。

老いや病気や障害や大きな不幸によって、生きることが苦痛である、
あるいは人生に希望を持つのが難しい、そう思っていたり見えたりする
人たちの生きる姿が、我々に深い感動を与えることがあるのは、このためだ。
生きるという義務を敢然と果たす彼らの姿は、道徳的価値に輝くのである。

このように二人の大哲学者は弱者への敬意を説く。
ホッブスは「平等」を主張して「弱者をなめるな」と言い、
カントは「『価値のない生』の価値」を論じて弱者に「生きよ」と言う。


国家・社会・個人の弱者への態度は、
彼らの議論を踏まえたものでなければならない。
ことあるごとに唱えられる「弱者の人権」や「いのちの尊さ」も、
彼らの議論に照らすことで、その意味や根拠が明確になるだろう。
何より二人の声が、弱者に届いてほしいと思う。
by yuko8739 | 2018-11-22 21:19 | 社会 | Trackback | Comments(0)