2018多くの死、おにぎり一つくれぬ国

2018年8月9日 朝日新聞朝刊より引用

「浮浪児」助けなき路上の日々
戦争孤児が見た社会の姿 より


誰も助けてくれなかったー
73年前の終戦後。
東京・上野駅など各地の大きな駅には「浮浪児」と呼ばれた子どもたちがいた。
親を失った戦争孤児。
多くの命が路上に消えた。
駅の子どもたちの目に写った社会、大人の世界とは。

多くの死 おにぎり一つくれぬ国 (一部引用)
横浜市 金子トミさん(88)は眼に涙を浮かべて、上野駅の
地下道や上野公園で暮した日々を振り返った。

母の実家がある山形県に疎開したが、そこで父が死去。
終戦の年の空襲で母を失った。
残されたのは当時15歳の金子さんと小学4年の弟、
小学2年の妹の3人。親類の家に居続けることができず、
東京に戻って働こうと自宅を目指したが、東京は一面の焼野原。
きょうだい3人は上の駅の地下道で寝起きする「浮浪児」となった。

夜は地下道の壁にもたれ、両脇に弟と妹を抱えるようにして寝た。
「浮浪者」「不良児」であふれ、足の踏み場もないほどだった。
昼は上野公園の「西郷さん」の銅像の周りで過ごした。
雨風が強い日はトイレの個室に隠れ、和式便器の上に板を渡して
3人で身を寄せ合った。

食事は1日サツマイモ1本。行商の女性から買った。
親類からもらったお金が命綱だった。
地下道では、朝になっても起きず、そのまま死んでいる子もいた。
みな栄養失調だった。
「かわいそうで涙がでたけれど、食べ門をあげることはできません。
妹と弟を連れて自分の生きていかないといけなかった」

胸の刻まれているのは国への不信感だ。
「政府はおにぎり一つくれなかった、ウソは申しません」
金子さんは幾度も繰り返した。
「死んで行く子を見るたび、国の偉い人がなぜおにぎり一つ
だしてくれないんだろう、どういうことなんだろうって、
数え切れないほど思いました。
孤児が死んでいくのをしっていたはずなのに・・・」

「狩り込み」(行政強制収容)で捕まったら、
牢屋に入れられると信じていた。
路上の孤児に食べものもくれない政府が保護してくれるはずが
ないと思っていた。

地下道の暮らしは数か月続いた。
その後、弟と妹は両親の郷里に別々に引き取られた。
金子さんは住込みの女中に出された。

今も当時の記憶で涙があふれる夜がある。
行き着くのは「戦争さえなければ」の思いだ。
「ひどい言葉ですけどね、もし戦争するっていう人がいたら、
ぶっ殺してやりたい。そんな気持ちです」


by yuko8739 | 2018-08-10 08:41 | 社会 | Trackback | Comments(0)  

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