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ゆうゆうタイム

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「困難な成熟」の感動

今読んでいるのは、内田樹の「困難な成熟」
いつも寝る前に本を読むが、彼の言葉には興奮し、
深く感動する。

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この本の第3章<与えるということ>
(以下、引用)
贈与は「私が贈与した」という人ではなく、「私は贈与を受けた」と
思った人間によって生成するのです。

「目に映るすべてのものはメッセージ」(ユーミンの『優しさに包まれたなら』)
この感覚のことを「被贈与の感覚」という。
誰もメッセージなんか送っていないんです。

だけどユーミンは 自分を祝福してくれるメッセージをそこから勝手に
受け取った。そしてその贈りものに対する「お返し」に歌を作った。
その歌を僕らは聴いて、心が温かくなった。
「世界は住むに値する場所だ」と思った。
そして今もこうして この歌について多くの人に書いている。
贈与は 形あるものではありません。それは運動です。

人間的な営為のすべては「贈与を受けた立場からしか始まらない。
そして市民的成熟とは、「自分が贈与されたもの」
それゆえ「反対給付の義務を負っているもの」について、どこまで
長いリストを作ることができるか、それによって考慮されるものなのです。
そのリストが長ければ長いほど、「大人」だということになる。

皆さんにしてほしいのは、ユーミンが歌ったとおり、
「目に映るすべてのことはメッセージ」ではないかと思って、
周りを見わたして欲しいということ、それだけです。


<贈与の訓練としてのサンタクロース>
(以下引用)
クリスマスプレゼントという習慣の意義は、その「スケール」だと思います。
なぜクリスマスだけが例外的にスケールが大きいのか。
それはこれが「贈与」の儀式だからだと僕は思います。

それはこの儀式が贈与の本質を教えることを目的としているからでしょう。
この「純粋贈与」というのは、「返礼をすることができない」ということ。
親から受け取った贈りものを返す相手は、自分の子どもです。



若い頃にみかけた ある男性のたたずまいに 内田樹は感動したという。
彼はこの小さな世界を形成している、すべてのささやかなものたちに対して
「君たちのおかげで私は今ささやかだけれど、たしかに幸福な
時間を味わっています。どうもありがとう」という感謝の言葉を
かけていた。(ようにみえた)

「ささやかだけれど、大切なこと」に対して無言で祝福を与えるような人を
大人だと思ったというのだ。


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自分がクリスマスのサンタクロースの儀式に 
なぜ、これほど惹かれるのか、わかった気がした。
それは「純粋贈与」だからなのだ。

私は、うなった。
私は「贈与」という言葉は思い浮べなかったが なにか「福音」や
「祝福」というようなものを 自分が受けている感覚は昔からあった。
たとえば 自分がそのようなものであると感じるのは とても幸せなこと。

そして贈られたものに思いを馳せながら 自分はなにを誰にどんな形で
贈ることができるのか、そんなことをときどき考えていた。

私の魂に 深く大きく この本の言葉が響き渡った・・・
すでに贈られた多くのものを 抱きしめている自分。
そして「ささやかだけれど、大切なこと」を、日々見聞きし、
そのなかからも なにか幸せな「メッセージ」を受け取っている自分。

この本の内田樹の言葉によって 私の世界は深く 美しくなった。
私はすべてであり 私は細部でもあり。
太陽や星々、夜明けの空や 夕景の美しさと通じ合っている。
宇宙のすべてと 交信しているのだ。

野良猫の瞳、雪の上の紅い実の輝き、
変わった飛び方の野鳥も 尾根が青く輝く冬の山脈、
美しいみどりの煎茶、口から入るおいしい食べ物は それだけで「福音」だ。
ああ、すべてがすばらしい!
生きていることは 有り難い・・・

魂を開こう。
閉じないで 全方向に光と風を贈ろう。

そして受け取るのだ、私宛てのメッセージのすべてを!

 
by yuko8739 | 2018-01-06 13:05 | | Trackback | Comments(0)