人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ゆうゆうタイム

yukotime.exblog.jp
ブログトップ

大人になるということ

以下、「内田樹研究室」
~村上春樹の系譜と構造~より引用

男たちは誰も人生のある時点で少年期との訣別を経験します。
「通過儀礼」と呼ばれるそのプロセスを通り過ぎたあとに、
男たちは自分がもう「少年」ではないこと、
自分の中にかつてあった無垢で純良なもの、傷つきやすさ、
信じやすさ、優しさ、無思慮といった資質が決定的に
失われたことを知ります。

それを切り捨てないと「大人の男」になれない。
そういう決まりなのです。けれども、それは確かに
自分の中にあった自分の生命の一部分です。

それを切除した傷口からは血が流れ続け、傷跡の痛みは
長く消えることがありません。ですから、男子の通過儀礼を
持つ社会集団は「アドレッセンスの喪失」(少年期との決別)が
もたらす苦痛を 癒すための物語を用意しなければならない。

それは「もう一人の自分」との訣別の物語です。
弱く、透明で、はかなく、無垢で、傷つきやすい
「もう一人の自分」と過ごした短く、輝かしく、心ときめく
「夏休み」の後に、不意に永遠の訣別のときが到来する。

それは外形的には友情とその終わりの物語ですけれど、
本質的には おのれ自身の穏やかで満ち足りた少年期と訣別し、
成熟への階梯を登り始めた「元少年」たちの悔いと喪失感を
癒すための自分自身との訣別の物語なのです。

もちろんすべての男たちがそのような物語を
切望しているわけではありません。
そのような物語をとくに必要としない男たちもいます。

「成熟しなければならない」という断固たる決意を持つことの
なかった男たちはおのれの幼児性をそのままにひきずって
外形的にだけ大人になります。
私たちのまわりにもたくさんいます。

外側は脂ぎった中年男であったり、不機嫌そうな老人で
あったりするけれど、中身は幼児のままという男はいくらでもいます。

彼らは「アドレッセンスの喪失」を経験していないので、
その喪失感を癒すための物語を別に必要とはしていません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

人間の成熟って どういうことだろう。
内田樹氏が、村上春樹の小説を論じた文章は、「男」の成熟について、
書いてあって なかなか興味深いが、女は?
男の成熟があるのなら 女の成熟ってどういうことだろう。

男女問わず、青年期には自我の確立に伴い、葛藤や痛みが生じる時期。
一心同体だった親と離れなくては 大人になれない。
つまり「子ども」だった自分との決別。

でもそのことは もしかしたら一生をかける「仕事」だという気がする。
大人になっても強い形で 親への依存が消えない場合もある。
肉体的にも 精神的にも(可能なら)ずっと 子どもでいたい根源的な願望が
人間には あるのかもしれない。
シニア男性が妻を子守り役にしたがるのは、そういうことではないか。

しかし、人は大人になる階段を登っている。
親だけにすがるのではなく、自分の理想や希望、親以外の友や仲間と
新しく関係を創って いかなくてはならない、つまり自分だけの人生を
創っていかなくてはならない。
もちろん、それは「親捨て」ということではない。

親への愛と敬意を大事にしながら、「依存しない」という覚悟が子どもには必要だ。
依存しないで生きていくことを、自覚しなければならないと思う。
まさに「成熟しなければならない」という断固たる決意を持つことの
なかった男たち(女たちも?)はおのれの幼児性をそのままにひきずって
外形的にだけ大人になります」
その通り!!!

成熟ということに関しては 男女差はないだろう。
現代に多い、「母子密着型」の親子は、一見友達のように仲がよい。
しかし 仲良きことは 本当に「美しい」だろうか。
母子ともに 互いに無批判で 同じ価値観だけで人生に向かうのでは、
そこに人間の「個」としての輝きは薄い、まるで双子のように同じ形に見える。

男も女も すべて「個人」として生きるのでなくては 成熟した生き方には
ならないのではないか。
依存させ続ける親、過干渉の親は子どもの成熟をどこまでも 阻むことになる。

親には、依存したいが 依存しないと覚悟を決める。
そして ひとりの大人として 親への愛と敬意は惜しみなく注ぐ。
親を含めて 他人と適正な距離を取ることは 大事なこと。

ひとりの時間、自分と対話する時間を持つこと。
そして自分の流儀は 他人には通用しないと認識すること。

そういう人間の形が 私の理想かもしれない。

by yuko8739 | 2017-05-21 09:25 | | Trackback | Comments(0)