人気ブログランキング |

ゆうゆうタイム

yukotime.exblog.jp
ブログトップ

正しさについて

あるブログの記事をきっかけに 作家高橋源一郎の文章
「あの日から僕が考えてきた正しさのこと」を読んだ。

311から1年が過ぎて 彼が感じていることを率直に述べている。
非常に胸に迫る言葉があったので そのことについて 考えてみようと思う。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

引用

とりわけ、「あの日」以来、ぼくたちは、二つの「正しさ」の前で
選択を迫られることが多くなったように思える。
あなたは「原発推進」派ですか、「反原発」派ですか?
低レベルの放射線は危険だと思いますか、思いませんか?
増税は必要ですか? TPPに反対? 賛成?

しかし、正解は、ほんとうに、その二つのどちらかなんだろうか。
そして、いやいや、そのどちらかの答を選ぶと、それに反対する人たちから、
「この資料を知らないのか?」とか「こんなことも知らないのか?」と
罵られなければならないのは なぜなんだろうか。

無理矢理回答を迫ること、その回答者に、専門家なみの知識を要求すること、
自分の意見だけが「正しい」と考えること、その結果として、自分の意見の反対者は、
無知で愚妹な人間か「悪」であると考えること。
「悪」であるから排除して当然と考えること。おかしいじゃん、どれも。

それらがどれも不自由に感じられたら、不自然に思えたら、そういうことじゃ
ないんじゃないかなあと つぶやきたくなったら、
そんなことより もっと大切なことがあるじゃんといいたくなるのなら、
そういう、自分の直感、内側の声に耳をかたむけたい。
それをこそ、大事にしたい。

うん。こうやって、ぼくがいっていることも、すごくマジメすぎる感じがするな。
というか、息苦しいな。「正しさ」を求めることは怖い、というぼくの言い方も、
なんだかちょっと不自由な感じがするんだ。
人は、なにかを否定しようとすると、たいてい、その否定するものに似てくるんだ。

~中略~

もちろん、親鸞は「悪い」ことをしていいといったのではない。
そのようにせざるをえない人間という生きものの運命を、
深く知るべきだといったのである。
少しだけ「悪く」、少しだけ「善い」、そういう生きものなのだと。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私は 私の思想の傾向として 正しいことへの志向が強いと 常々感じている。
問題は それがいいとか、悪いとかではない。

髙橋源一郎が感じているように、二者択一の場合は 正しくないほう?は、
救われないということだ。

正しいとか 正しくないとかは 私自身が決めること。
だから 私が正しくないと感じたら、それは「悪」ではないが「無知」か「無理解」と
いうことになる。

つい そのことを責めるような意識が 自分のなかに生まれることがないとは言えない。
この文章を読んで ちょっとはっとした。

私は もっと もっと 人に優しくあらねばならない。
「無知」は 罪か?  自分には「無知」はないのか?

たとえば 反原発は正しいことと 私は信じている。
そう信じると まるで宗教のように 信じない人は なんだ?というふうになる。

そのことの怖さ。
考えると かなりおぞましいことだ。

数十年間唱え続けた「産官学・原子力ムラ」の巧妙な教宣活動のせいか、
原発というものは明るい未来で 平和利用で 正しい選択だと 思った人は 
事故などは 起こり得ないと信じただろう。
しかし、事故は起きしまった・・・

もう、なにをどうしても 贖いきれないほどの放射能は 日本だけではなく
地球規模の汚染を 引き起こしている。
だからといって 事故は起きないと信じた人を 私は断罪するのか。
できるのか。

原発のおかげで生計を営んできた多くの人々、そして 原子力マネーで潤った
地方の経済を 軽蔑するのか、私は?
そんなことは・・・今は したくない。

今は お互いに ありえないようなことが起きた その痛みを身のうちに 
秘めながら、今を生きる すべての人と連帯したいと思う。
日本人は みな同志なのだ、311以来から。

自分が正しいと思うこと以外を否定する、マイナスの感情からはきっと何も生まれない、
そういうことだと 思う。
自分と同じ正しさでないと 受け入れ難いというのは 恥ずべきことではないのか。

正しさだって それぞれあって みな自分のやり方しか 生きられない。
自分の「正しさ」を なにかもっと 優しくて いい加減な感じで 表明できればなあ。
「こういう別の考えもありますが・・・共に 考えてみましょうか」
「共に」「いっしょに」 そう 言えたら 最高かもしれない。

かなりの回り道になっても その道をいっしょに歩かないと 見えない風景もあるだろう。
人の心は柔らかく 傷つきやすく 壊れやすい。

それらのものと 共に存在するためにはふんわりと ときには逃げ足早く 煙に巻く・・・
変幻自在で つかみどころがないほうが 人を傷つけないし 自分も傷つかないだろう。
 

科学や理論では 割り切れない感情という彩りを 常にまといながら人は生きる。
そういう人間というものに対峙するときには どういう場合も 切り捨ててはいけないのだ、
きっと。

人間は「少しだけ悪くて」「少しだけ善い」生きもの なのだから。
どちらも「それでいいのだ」・・・

自分は正しいと確信するときの 危険な香りを ちゃんと感じる人でありたい。


そういうことを 高橋源一郎の言葉から 深く感じた。
出会うべき言葉と 出会った気がした。

出会って よかったと 私は思っている。

彼の文章に出会うと いつも自分が 少し深くなった気がする・・・


「人は、なにかを否定しようとすると、たいてい、その否定するものに似てくるんだ」
by yuko8739 | 2012-05-10 00:56 | | Trackback | Comments(2)
トラックバックURL : https://yukotime.exblog.jp/tb/17941985
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by うさぎ二匹 at 2012-05-12 16:30 x
こんにちは!初めてコメントさせていただきます。

私は原発反対派なのですが、もし我が家が原発で働いていたとして今日の状況になったとしたら…? すぐに廃止しろと言えるかどうか--? 考えてしまいます。

だめだとわかっていてもそうせざるを得ない人がいるということを理解するというか、、、、知らないと声高らかに叫ぶだけではいけないと考えるようになりました。

この記事、共感します。
Commented by yuko at 2012-05-12 23:23 x
うさぎさん、うれしいコメントありがとうございました。私は今までの人生で 一度も原発に賛成したことはありません。うさぎさんと同じです。しかし・・・こんなことも知らないの!と思う 自分の高慢さに 嫌気がさすこともあるのです。だから 二者択一ではなく 自分の信念は曲げないで、立っている位置は変えなくても どちらにも身を寄せられるやわらかな心も 大事にしたいと思ったのです。高橋源一郎さんの文章に 深く触発された私です・・・共感していただき とてもうれしい思いです。yuko