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花巡りと岬のギャラリー
先日の日曜日、自然の仲間たちと4人で 海のそばの遊歩道を散策してきた。
天気にも恵まれ、行く前には市内名物の一本桜を2か所で見物。




日曜だったせいか、多くの人が見頃を迎えた桜を見にやってきていた。
巨木には 霊的な癒しや深いエネルギーを感じる・・・すごい。






遊歩道に着いて 駐車場から眺める港の風景や海の色の美しさに 胸を打たれる。
風が強かったが 散策路に入り 林のなかを降りると ほとんど無風だった。









ウグイスの鳴き声、そして道の両側には いっぱいのニリンソウ。
まるで白い花の道・・・延々とゆるく曲がりながら そんな道が続く。
所々にここの名物、オオバキスミレが咲いている。
うれしくて ドキドキする。

5月の陽気に誘われて 木立は紅い芽吹きの季節。
林の奥には 断崖絶壁の蒼い海も見える。
この場所は カタクリの時期には たぶん市内最高の規模の群生地。






道の両脇の笹薮のなかは まだカタクリの薄桃色でいっぱいだった。
時期的にはもう終わりだが 気温が低い場所などでは 水色のエンゴサクや
キクザキイチゲも まだほんの少し 咲いている。

アップダウンを繰り返して 約2km程度の散策は 最高の気分・・・
所々に小さな川が流れている。
探せばザリガニも きっといっぱい獲れるだろうな・・・
今度は マゴちゃんとバケツを持って 来たい!!!

天には美しい鳥の声、地には花で埋まる白い道・・・
途中でベンチでひと休み、持参した蓬餅を仲良く食べて 幸せなひとときを満喫した。










散策が終わって、予定していた「鴨せいろ」を食べに、期待して 蕎麦屋さんを
めざしたが なんと客が多くて蕎麦が売り切れ!
ああ、残念・・・そこで 近くの寿司屋さんの寿司ランチをいただくことに。

握り寿司のほかに、ずいぶんたくさんの太巻き、細巻きを出してくれて、
こんなに?というと、「今日は母の日だから、サービス」と にっこり。
すごくうれしいね、得しちゃったね!とみんな にこにこ。

食後に 無料で開放している画家の私設ギャラリーに行った。
太平洋を一望できる岬にあるので、眺めは絶景だ。

過日、仕事でお会いして 画家のMさんの多くの絵に感動した私は 
以前から仲間をここに 案内したかった。

数年かけて自分で建てたというギャラリー、そこに展示されているのは
自然の風景の最高の一瞬を 静謐な美しさで描いている絵。
Mさんご夫婦やHさんも 胸を打たれたようだ。

画家のMさんご夫婦から 絵について さまざまな解説やエピソードを
直接伺うことができたのは 運が良かった。
ギャラリーは どんどん絵を見にやってくる人々で いっぱいになった。

そこから最後の目的地 私の行きつけの家具店に案内した。
Mさんが 食卓テーブルを見たいということだった。

食器と家具を見ていると 私は全く飽きない。
買えなくても 見るのが大好き。
いろんな椅子の座り心地を試して デザインや木肌の美しさに酔う。

自然散策とお寿司、絵画と家具・・・
盛り沢山な楽しい1日が こうして終わった。










# by yuko8739 | 2012-05-15 08:12 | 仲間 | Trackback | Comments(0)
自分を語る快感
先日の新聞で、人は自分のことを語る(話す)と、食欲や性欲を満たすのと
同じような快感(脳内でドーパミンが放出される)ということが判明、
と掲載されていて、なるほどと深く 納得した。

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5月8日付のウォールストリートジャーナルに
「脳科学で解明、人が自分について語りたがるわけ─氾濫するSNS」の記事が掲載された。
自分について話すことが、食べ物やお金で感じるのと同じ「喜びの感覚」を脳のなかに
呼び起こすことが、5月7日発表された研究で明らかになった。

個人的な会話であっても、フェイスブックやツイッターといったソーシャルメディアでの
発信であっても、それは変わらない。

日常会話の約40%は、自分が何を感じ、どう考えたかを他人に話すことで占められている。
米ハーバード大学の神経科学者らが脳画像診断と行動に関する5つの実験を行い、
その理由を解明した。
脳細胞とシナプスがかなり満足感を得るため、自分の考えを話すことを止められないのだ。

「セルフディスクロージャー(自己開示)は特に満足度が高い」と同大学の神経科学者、
ダイアナ・タミール氏は話す。

一般的に、セルフディスクロージャーを行うと中脳辺縁系ドーパミン経路に関わる
脳の領域の活動が高くなる。ここは食べ物やお金、セックスなどで得られる
満足感や快感と関係している部分だ。

テキサス大学の心理学者、ジェームズ・ペネベイカー氏は
「人は、他人に話を聞いてもらうのが好きなのだ。そうでなかったら、
どうしてツイートをするだろうか」と述べた。
(一部抜粋、引用は以上)

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この記事には 今流行のツイッターやブログもしかり、
人はすべて 自己開示への欲求が本能なのだ、という結論だった。



私が長年かかわってきたカウンセリングの学びでは 自分を語る自己開示の方法と、
開示された「事柄」ではなく 「感情」に どうやって向き合い、
それを どのように受容するのかということが 学びの核心だったように思う。

自分を語る快感があることは さまざまなワークショップ(WS)を経て 
自分の実感として 感じてはいた。

自己開示は「言えた」という深い満足で それだけでも すごいことだが、
開示した自分の感情を そのままの形で 誰かに受け止めてもらえたときには 
さらに 心が深く癒やされるような体験が 起きる。
心の変化は 体の変化を伴うほどものすごいものだった。

こころのなかの暗い部分が 一瞬陽がさすように明るくなり、物事がクリアに見える。
WSの帰路には 目にする全てのもの、日常の何気ない景色さえ 美しく輝いて見えた。

自分は、自分でいいのだ。
これでいいのだと、涙と共に 深い悦びがこみ上げたものだ。



つまり人の脳は 自分を語ることが好きで 快感物質をも放出するが、
その次の段階「感情の受容・共感」を 究極の目的として求めているのでは 
ないだろうか・・・
そこが 人の脳が目指す 快感の頂点なのかもしれない。



共感するという行為は これほど強く深く 脳の働きとも係わりがある。
自己開示できる自分でありたいし、人の話を傾聴できる自分でもありたい、
そう願って カウンセリングの学びを 長く続けてきた。


しかし友人や知り合いには カウンセリングの学びを 生かすことが
できそうな気もするが、しかし・・・自分の家族に対しては これが至難の業。

カウンセリングの師であったI先生も 昔、よくこう言っていた。
「家族にカウンセリングは 無理です・・・」
あれだけ会の仲間の 生の感情にひたりと添ってくれた 温かい先生でも、
ご自分の家族には、カウンセリング的な受容と共感が できなかったらしい。

今、私には その先生の気持ちが よくわかる気がする。
他人だからこそ、自分の感情を 横に置けるのだ。

自分の家族には 痛切な経験や 壮絶な葛藤や嫌悪と その果ての諦めなど 
あまりにも複雑で 長い年月を経た 感情のもつれの歴史がある。

それに相対して 空白なこころで相手に向かい、そのときの感情だけを受容することは 
困難なことだと思う。
多分 私には できない。



縁あって、家族になった自分の運命の 更なる重さを感じながらも 
明るく 哀しく 多少滑稽な あきらめの果てにいても
向き合っていけたらと 願わないことも ない。

しなやかに。
したたかに。




こうして日々の思いを 誰かに聞いてもらい(読んでもらい)そして稀なことだが、
共感します、というコメントなどを 顔も知らない誰かさんから いただくと、
私の脳は悦びで めくるめく幸せを感じて 真っ赤?になる・・・

ブログを書く。
その幸せは 脳の快感なんだもの、やめられない。
しかし 聴かせていただくことにも 喜びを感じる自分でいたい。


書くことは 話すことであり 自分のstoryを 物語ることだ。
ユング派の臨床心理学者で、すでに亡くなった河合隼雄さんが 
自分を物語ることの意味を 教えてくれた。

語ると 気づきに至る道が かすかに開く。
心のなかの もうひとりの自分にも 会えるかもしれない・・・


今、ふと気づいた。
語る快感は 相手がいてこそ。

人には 語る相手 聴いてくれる人が 必要なのだ・・・


やっぱり人には 人が 必要なんだなあ・・・








# by yuko8739 | 2012-05-14 12:50 | からだ | Trackback | Comments(0)
月浦森林自然公園
大人の遠足は いつも楽しい。
お弁当を食べて 仲良くおやつを分け合って。
昼食のあとで ニセコの野菜やウドを買って いざ、洞爺湖へ!

おしゃべりしながら ゆっくりと景色を楽しんだ。
いつも自分が運転するので のんびり景色など見ていられない。

どこを眺めても この季節は大好き。
畑に出た何台ものトラクターが 行き来して 土をふかふかに耕す。
寒すぎず 暑苦しくもない 今頃の作業は快適だろうか。

日々こうやって 労を惜しまない 膨大な農作業のおかげで 私たちはおいしいお米や
野菜などを 食べることができる、ありがたいこと。

残雪が すじ状に残った羊蹄山には 中腹あたりに 霞がかかっている。
その羊蹄を後にして 静かな農道を 洞爺湖めざして車は走る。



月浦森林自然公園は この一帯を開拓した 加藤子爵の別邸跡地を整備した公園で、
森林浴や豊かな自然を楽しむことができる。

園内にはヨーロッパから移殖されたカラマツの並木があり、
その樹齢は 道内最古の100年といわれている。

そのほかに神秘的な沼もあり、フクロウやエゾリスなどの野生の生き物や、
カタクリなどの美しい野草も 数多く観察できる貴重な場所。

アカゲラやオオルリ、キビタキなど 美しい鳴き声の野鳥もいっぱい。
数年前には 休憩所も整備され 自然の好きな人々が多く集まる場所になっていて、
約1kmの散策が楽しめるように 順路がつけられている。
1年前までは 私の属する自然の会の二組のご夫婦が この公園の整備に日々通い、
膨大な仕事を こなしていた。

柵を作り、歩道を作り、笹を刈り 看板を立て、ほぼ行政が監理すべきほとんどの仕事を 
何年間も 無償で続けていた。

今、転居や健康上の理由から それが続けられなくなった。
ボランティアで何年も続けた過酷な仕事を 継ぐ人もいないまま春を迎えた。
今こそ、管理者の町は なんとか対策を取らなければ・・・


駐車場に着いて すぐに川に渡した木橋を渡ると、もう一瞬で森のなか。
散策路周辺入り口は コゴミの林になっていて その軽い薄緑色が 林のなかで
明るいアクセントになっている。






足元には ヒトリシズカやイチリンソウ、シラネアオイ、ミヤマスミレ。
歩き進むと 小川もあり沼の岸辺には エゾノリュウキンカも 黄色く群れて咲いていた。
池を巡り 休憩所そばで Kさんが見つけた「クマゲラ?の巣」を
見学した。なかなか大きくてびっくり。
サルノコシカケが 何個もその木に生えていた。








春の森のなかは 見通しが良くて 広々としている。
うっそうとした 恐い感じが全くないので 歩きやすい。
しかし もう蚊やぶよも いっぱい近寄ってくるので、今度は防虫剤が必要かな。

公園からまた車で 集合場所に戻り すぐそばの公園でまた桜を見学。
巨大な枝垂桜で有名な ある民家に立ち寄ったら、見物の人も車も多かった。
枝垂桜は満開で 見応え十分だった。






さまざまな自然を満喫した5月の幸せな1日が こうして終わった・・・










# by yuko8739 | 2012-05-11 14:44 | 自然 | Trackback | Comments(0)
ニセコ・エゾエンゴサク観察会part1
雨を心配していたニセコの観察会。
集合場所の桜が満開で 快晴ではないが 花曇りの気候。
さっそく車数台に分かれて 乗り合いながら ニセコを目指す。

今日の目的は エゾエンゴサクの大群生地。
ある公園内で エゾエンゴサクが 水色のじゅうたん状態だと聞いて、夢見ていた。
いつか、見てみたいと。

その夢がかなう日・・・ドライブは快調に進んだ。
やはりニセコ方面は涼しいのか、まだ道の脇や 庭の片隅の雪の塊に驚いた。

その横にはふきのとう、それなのに桜も、梅も咲き もう春は 順番狂いの反乱状態か・・・
小川の川沿いには 黄色い色がいっぱい!多分 エゾリュウキンカだろう。

公園に到着して歩き出して 視線を少し先にやると 驚いたことに地面の一面が 
水色や青紫色だった!ああ、エンゴサク・・・ちょうど最盛期に遭遇した。
その先も もっとその先も 延々と水色の地面が続く。
踏んでしまいそうで 注意しながら歩く。












真っ白なイチリンソウや福寿草も咲いていた。
池の周りには やはりエゾノリュウキンカが黄金色に咲き誇っている。






耳に心地よい ウグイスやキビタキ?など 野鳥のさえずりが公園内に
美しく 響きわたる。山菜のこごみやフキもいっぱいあった。

広い公園には 大きな桜の木も数本。
ああ、やっと この季節になったのだ。
薄い桃色の このけむるような ふわっとした七分咲きの春の桜。






長い 寒い 雪の多い冬の最中に 何度 桜を夢見ただろう。
また、春が巡る その悦びの象徴のような 桜。
私は北海道人として 圧倒的な命の官能を この桜に感じる。

なんとつややか、あでやか、はらりと散って 花びらが風に舞い、
はかない花の終わりに 恍惚となる・・・


公園から次に向かったのは 代表のKさんが
「リュウキンカのすごい景色見せます、ただし個人の土地ですけど・・・」?

畑のなかの道を走り 一軒のログハウスに到着。
この家の奥の小川は 驚くほどのリュウキンカが 今とばかりに咲き誇っていた!!! 
なんとすごい群落だろう・・・こんな大群落なら 観光地になりそうだ。
小川の流れる音が 耳をくすぐる。






シラネアオイやサンカヨウ、またまたフキやウド、コゴミなど山菜もいっぱい。
家の横にも 桜の木。













そして昔ながらの レンガ積の高いサイロが2本も。
なかなか絵になるすばらしさだった。



その後、道の駅のベンチで仲良く 持参したお弁当を食べた。
道の駅名物のコロッケやニセコ名物の甘い越冬ニンジンの味噌漬けなどが 
とてもおいしかった。
牧場のおいしいヨーグルトを ごくり。




# by yuko8739 | 2012-05-11 01:59 | 自然 | Trackback | Comments(0)
正しさについて
あるブログの記事をきっかけに 作家高橋源一郎の文章
「あの日から僕が考えてきた正しさのこと」を読んだ。

311から1年が過ぎて 彼が感じていることを率直に述べている。
非常に胸に迫る言葉があったので そのことについて 考えてみようと思う。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

引用

とりわけ、「あの日」以来、ぼくたちは、二つの「正しさ」の前で
選択を迫られることが多くなったように思える。
あなたは「原発推進」派ですか、「反原発」派ですか?
低レベルの放射線は危険だと思いますか、思いませんか?
増税は必要ですか? TPPに反対? 賛成?

しかし、正解は、ほんとうに、その二つのどちらかなんだろうか。
そして、いやいや、そのどちらかの答を選ぶと、それに反対する人たちから、
「この資料を知らないのか?」とか「こんなことも知らないのか?」と
罵られなければならないのは なぜなんだろうか。

無理矢理回答を迫ること、その回答者に、専門家なみの知識を要求すること、
自分の意見だけが「正しい」と考えること、その結果として、自分の意見の反対者は、
無知で愚妹な人間か「悪」であると考えること。
「悪」であるから排除して当然と考えること。おかしいじゃん、どれも。

それらがどれも不自由に感じられたら、不自然に思えたら、そういうことじゃ
ないんじゃないかなあと つぶやきたくなったら、
そんなことより もっと大切なことがあるじゃんといいたくなるのなら、
そういう、自分の直感、内側の声に耳をかたむけたい。
それをこそ、大事にしたい。

うん。こうやって、ぼくがいっていることも、すごくマジメすぎる感じがするな。
というか、息苦しいな。「正しさ」を求めることは怖い、というぼくの言い方も、
なんだかちょっと不自由な感じがするんだ。
人は、なにかを否定しようとすると、たいてい、その否定するものに似てくるんだ。

~中略~

もちろん、親鸞は「悪い」ことをしていいといったのではない。
そのようにせざるをえない人間という生きものの運命を、
深く知るべきだといったのである。
少しだけ「悪く」、少しだけ「善い」、そういう生きものなのだと。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私は 私の思想の傾向として 正しいことへの志向が強いと 常々感じている。
問題は それがいいとか、悪いとかではない。

髙橋源一郎が感じているように、二者択一の場合は 正しくないほう?は、
救われないということだ。

正しいとか 正しくないとかは 私自身が決めること。
だから 私が正しくないと感じたら、それは「悪」ではないが「無知」か「無理解」と
いうことになる。

つい そのことを責めるような意識が 自分のなかに生まれることがないとは言えない。
この文章を読んで ちょっとはっとした。

私は もっと もっと 人に優しくあらねばならない。
「無知」は 罪か?  自分には「無知」はないのか?

たとえば 反原発は正しいことと 私は信じている。
そう信じると まるで宗教のように 信じない人は なんだ?というふうになる。

そのことの怖さ。
考えると かなりおぞましいことだ。

数十年間唱え続けた「産官学・原子力ムラ」の巧妙な教宣活動のせいか、
原発というものは明るい未来で 平和利用で 正しい選択だと 思った人は 
事故などは 起こり得ないと信じただろう。
しかし、事故は起きしまった・・・

もう、なにをどうしても 贖いきれないほどの放射能は 日本だけではなく
地球規模の汚染を 引き起こしている。
だからといって 事故は起きないと信じた人を 私は断罪するのか。
できるのか。

原発のおかげで生計を営んできた多くの人々、そして 原子力マネーで潤った
地方の経済を 軽蔑するのか、私は?
そんなことは・・・今は したくない。

今は お互いに ありえないようなことが起きた その痛みを身のうちに 
秘めながら、今を生きる すべての人と連帯したいと思う。
日本人は みな同志なのだ、311以来から。

自分が正しいと思うこと以外を否定する、マイナスの感情からはきっと何も生まれない、
そういうことだと 思う。
自分と同じ正しさでないと 受け入れ難いというのは 恥ずべきことではないのか。

正しさだって それぞれあって みな自分のやり方しか 生きられない。
自分の「正しさ」を なにかもっと 優しくて いい加減な感じで 表明できればなあ。
「こういう別の考えもありますが・・・共に 考えてみましょうか」
「共に」「いっしょに」 そう 言えたら 最高かもしれない。

かなりの回り道になっても その道をいっしょに歩かないと 見えない風景もあるだろう。
人の心は柔らかく 傷つきやすく 壊れやすい。

それらのものと 共に存在するためにはふんわりと ときには逃げ足早く 煙に巻く・・・
変幻自在で つかみどころがないほうが 人を傷つけないし 自分も傷つかないだろう。
 

科学や理論では 割り切れない感情という彩りを 常にまといながら人は生きる。
そういう人間というものに対峙するときには どういう場合も 切り捨ててはいけないのだ、
きっと。

人間は「少しだけ悪くて」「少しだけ善い」生きもの なのだから。
どちらも「それでいいのだ」・・・

自分は正しいと確信するときの 危険な香りを ちゃんと感じる人でありたい。


そういうことを 高橋源一郎の言葉から 深く感じた。
出会うべき言葉と 出会った気がした。

出会って よかったと 私は思っている。

彼の文章に出会うと いつも自分が 少し深くなった気がする・・・


「人は、なにかを否定しようとすると、たいてい、その否定するものに似てくるんだ」






# by yuko8739 | 2012-05-10 00:56 | | Trackback | Comments(2)