ゆうゆうタイム

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雨の日のポークカレー仕込み

先日の雨の日は13度~9度、寒い・・・
カレーの仕込みのために、前日に包丁を4本研いだ。
もう30数年余りの経験と慣れもあって 我ながら包丁研ぎの腕はいい。
土曜日は またまた 妹から山菜をもらったので、深夜まで「山菜仕事」
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時間切れで ウドは翌日の次の機会に。

翌日朝に、大きな玉ねぎ7個の千切りは、切れ味のいい包丁のおかげで
あっというまに完了。
切り口が滑らかな千切り玉ねぎは 寸胴鍋の上までボリュームたっぷり。
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このくらいあっても茶色になるまで炒めると 4分の1程度になってしまう。
豚肉は赤味が多い道内産のバラ肉、それをカットして塩、コショウ、カレー粉を 
ふりかけてしばらく置く。
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フライパンに にんにくと生姜のみじん切りを低い温度で炒めてから
小麦粉をふりかけた豚肉を入れて、表面を焼きつけるように炒める。
それを茶色玉ねぎの寸胴鍋に入れて、小さな火で煮こむ。
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コトコト・・・すりおろしりんご、ソースやケチャップ、セロリシード、
ローリエ、ガラムマサラ、ドライトマトのオイル漬け、ジャム、ワインなど、
家にある おいしくなるようなものすべてを 放り込む。
そして 火を止めたりつけたりしながら ゆっくり煮込む、これが1日目。

2日目は、いよいよカレーのルーを入れながら 味(濃度や塩分)を調整。
わが家は 市販のカレー粉を3種類以上入れる。
炒め玉ねぎのスープが甘くて絶品なので、カレー粉は多く入れない。
それをまた、1晩寝かせる。 

いい匂いにつられて我慢できない家族は 2日目に食べ始める。
3日目、玉ねぎと豚ばら肉の甘さが スパイシーなカレーのコクと
渾然となり、何ともいえない深い味わいの我が家流ポークカレーが完成!
カレーやシチュー、ラーメンなど 煮込みのごちそうを作るたびに思う。

手間ひまをかけたものは どんなものもかなわない。
時間が作りだすおいしさは 格別なもの。
手間を惜しんでは このおいしさは逃げてしまう。
手間ひまかけたご飯は 家庭の宝物。

今は働く女性がほとんどだから こういう料理を作る余裕が
ないかもしれない。
なんだかとても 残念な気がする・・・
ときに時間に余裕があれば 手間も時間もかけてひと品を仕込んでほしい。

といっても私の場合だと 2時間弱で基本のソースは完成する。
あとは 火を入れたり 消したりするだけ。
おいしくてカレーばかりを 家族は何日も?食べたりするから 
アレンジすれば 3日くらいの料理の手間は省けるかも?
(カレーパスタ、カレーうどん、カレーチャーハン、カレーチーズドリアなど)

所属するDV被害者支援NPOが 20周年を迎えるので、
4月から さまざまな形で協力している私。
夜の会議を重ね、祝賀会の準備や記念文集を作ったりしている。
この日は朝から記念誌の校正作業で 10時から読み合わせ。
作業に集中するので 頭も眼も喉もオーバーヒート、帰宅は午後5時!

疲れ切って帰宅したが、おいしく完成したポークカレーがあるので、
あっという間に晩ご飯。
家族や孫ちゃんが おいしそうに笑顔で味わっていた。

校正作業の合間に 入院している娘に会いに行ったら 
明日退院と決まったらしい。
早く退院できてよかったね!!!ほっとした。
# by yuko8739 | 2017-05-28 22:13 | おいしいもの | Trackback | Comments(0)

「色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年」を読んで

やっぱり1日で読了した。

高校時代に、とても仲がよくて 気も合って ここが自分の
居場所と 心から思える完璧な調和の4人の仲間たち。
大学に入っても、帰省しては語り合い その仲間に属していることが
幸せだった主人公、田崎つくるは 突然その仲間から
理由もわからずに 完全に拒否され はじき出されてしまう。

どうしてか、わからない・・・暗い海に 投げ捨てられたよう。
帰る場所が なくなった。
理由を聞く気にもなれないほど つくるは混乱し、絶望する。
半年もの間、死ぬことだけを考えて 人格も身体も別のものに変わった。

それから 長い16年もの年月を経て つくるは仲間に会いにいく。
なぜ、自分は あのように扱われなければならなかったのか。
その理由を知るために。
そのことと 向かい合うために。

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本を読んでいて、自分にも似たようなことがあることを思い出した。
ごく親しい高校時代の友だち、中年になってからも時々会って、
親しく深く 会話した。

ある年の暮れから 一切のメールも手紙もなくなった。
なにがあったのか わからない。
答えのない問いばかりが繰り返される、どうして?どうした?
このままだと 苦しい。

私がなにかしたのなら、それを話して。
「あなたが傷つくと思うので それは言えない」
私は理由がわからないことに より深く傷つき 彼女から離れた。
考えても いまだにわからない。
いまだに終わらない 私の混乱と怒りを 思い出した。

互いに友だちの少なかった十代の頃から 深く本音で語り合う
友情を育んだつもりだったのに、あなたは私に
なぜ こんな仕打ちをしたのだろう、消えない傷・・・



田崎つくるさん、あなたは少なくとも その理由を知った。
私は いまだにこの魂の隙間に「どうして?」という痛みを残したまま。
あなたほど苦しみもしなかったし、他にも友達はいたけれど。

だから、主人公のやるせなさ、人を信じることの怖さが 
私にもわかる気がした。
とくに 理由がわからないということに対しての混乱が。

その後の人生を「色彩を持たない」自分として 生きる辛さが
身に沁みる。
こころの内側は 閉じてしまっている。
それだけ 怖くてたまらないのだ。

ひとり、親友と言えるほどの友だち、灰田とよい関係を築いたかに
思えたが、突然灰田は去ってしまう。
忽然と つくるの前から姿を消した。

人生の不条理を 作者はこのエピソードで描きたかっただろうか。
あんなにすばらしい友情を得たかに思えた瞬間に 友が去った。
理由も 何もかもわからないまま。
最後まで その謎は明かされない。


しかし、中年になった今、恋人の後押しによって、
十代に出会ったすばらしい仲間たち、自分の居場所を 
中年の今辿り歩く。
それこそが 彼の「巡礼」なのだ。

出会った3人と本音で話すことで つくるは癒されていく。
それぞれの友は つくるを失ってしまったことで もうあの5人の輝きは
帰ってこなかった、失ったと語る。
完全なバランスをとっていた5人は だれが欠けても元通りにはならない。

そして、つくるのなかでは だれもが傷つかずに生きていけなかった
という意味において 仲間は まだ仲間のままなのだ。
失われたかに思えた絆を 確かめる巡礼でもあった。
死と再生の物語。
この文章が 深く心に残った。

そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。
魂のいちばん底の部分で田崎つくるは理解した。
人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。
それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。
痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。
悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、
痛切な喪失を通り抜けない受容はない。
それが真の調和の根底にあるものなのだ。

この言葉に 魂は深く打たれた。



# by yuko8739 | 2017-05-26 12:10 | 読書 | Trackback | Comments(0)

共謀罪/「色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年」

まさに狂暴な「共謀罪」が5月19日、衆院法務委員会において
またまた強行採決されてしまった。
これは民主主義ではない。
多数者の横暴だ。

討議を尽くし、共に考えて 練りあげていくということが 
この国の政治から 消えてしまった。
安部一色の政権で 本当にいいのか?
安部首相が先導して ひた走るこの国の将来は 戦争へと直結している。
自民党内部から なぜ反乱が起きないのだろうか・・・

なにもかも 安倍氏の個人的意向、意思ですべてが進み、
誰の反対の声も聞こえない、不気味だ。
独裁者の匂いがする。
 
憲法改悪も、2020年を目標にするとは どういう意図?
何かを隠ぺいするのに 眼をそらすということ?

国連の人権侵害などを調査し、報告していている「特別報告官」
J・カナタチ氏が、人権侵害の恐れがあるとして
「プライバシーに関する権利と表現の自由への過度の制限につながる
可能性がある」との書簡を 22日までに安倍首相宛てに送った。

その理由として、法案の「組織的犯罪集団」や「計画」
それに「準備行為」の定義があいまいなうえ、処罰の対象となる
277の犯罪の中には、テロや組織犯罪とは無関係なものも
広く含まれ、法が恣意的(しいてき)に適用される危険があると指摘。

菅義偉官房長官はこの書簡を「一方的」「書簡の内容は明らかに不適切」
などと批判。カナタチ氏からは 質問点が4つ出されているが、
それに答えるどころか、外務省に「強く抗議」させている。

このような日本の感情的な対応は、国連をはじめ海外に
「日本は人権侵害国家」と自ら喧伝しているようなもの。

恥をさらし続ける安部政権、このことが海外にも知れわたると、
海外メディアからも厳しい指摘が 寄せられている。
人権意識全くなし、憲法違反など 批判の声は高い。

共謀罪法案を整備したら テロを未然に防げると
単純に考えることが誤りなのである。
「テロ対策」という美名の下に隠された政府や国家権力の
罠を見抜く必要があるのだ。    弁護士  山下幸夫

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「色彩をもたない田崎つくると彼の巡礼の旅」

「ねじまき鳥」のあまりにスリリングな 深い世界に魅了された私。
本棚にしまってあった 古本市で買った数冊のなかに
村上春樹の本を発見、「色彩をもたない田崎つくると、彼の巡礼の年」

娘が今日手術を受けるので、病院にこの本を持っていったら・・・
読むのをやめられない。(娘の手術は無事終了)
10時過ぎに 病院に出かけて午後2時頃に帰宅した。
家で仕事をしながらも合間を縫って また本を開いてしまう・・・

この調子なら・・・1日で読み終えるのではないか。
恐ろしい。
今まで嫌っていた村上春樹の本が こんなにおもしろいなんて!
どうしよう・・・私もハルキストという病気に なりかかっているのかな?

「春樹の本には サンドイッチだのパスタだのトーストばかり出てきて
白めしが全く出てこないのがおかしい!日本人だろ!」
そんな読後感を書いていた人がいたが、ちょっと笑ってしまった私。
でもきっと春樹さんだって、白いご飯を食べていることでしょう。

「一千一秒物語 」(新潮文庫)      稲垣 足穂(著)
「傷だらけのカミーユ 」(文春文庫)   ピエール・ルメートル (著)
など、おもしろそうな本が 私を待っているのに・・・

田崎つくるさんと また同行している私です。
# by yuko8739 | 2017-05-25 18:25 | 社会 | Trackback | Comments(0)

洞爺湖3人ドライブ/大人になるということⅡ

先日、娘と仲のよい帰省中の甥と3人で 娘の運転で洞爺湖にドライブ。
気持のよい快晴の青空に 気分はうきうき。
長く北海道から出て暮らした甥は、食べるものがおいしくて 食べ過ぎて困っている。 

この日の洞爺湖ランチも、あの店?こっち?と、
さんざん迷った挙句に ドイツ仕込みのウインナソーセージの店で。
ドイツ風の三角屋根のきれいな店だ。
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ウインナソーセージメニューとハンバーグカレーを注文。
ビールと手作りウインナーは、すごくマッチしておいしかった。
私は手製のベーコンも大好き。
ビールでほろ酔いになってから 壮瞥の梅公園に行く。
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前にここに来たときは 梅は三分咲きだったがこの日は最盛期を過ぎていた。
花の時期は難しいが、駐車場は車でいっぱいだった。
それでも遠くに羊蹄山、洞爺湖には中島が浮かび、空は快晴。
なかなか絵になる風景だ。
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甥は「洞爺湖にこんな場所があるなんて 知らなかった!
すごい景色だね!」とびっくり!
「洞爺湖は、キャンプの印象ばかり強くて」
満開のときに 見せてやりたかった・・・
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そこから 向洞爺の「水の駅」そばの農園に行き、お目当ての
なつみ(カラマンダリンとポンカンの掛け合わせ)みかんを、
買おうとしたが、売り切れだった。

このみかんを先日買い、そのおいしさに感動。
せっかく買いにきたのに買えなくて 果物好きの私と甥は残念無念・・・ 
(後日FAXで頼んで 購入できた)
そうこうしているうちに、あっというまに3時過ぎて、
娘に用事があったので、高速で帰宅した。
慌ただしかったが なかなか楽しい洞爺湖ドライブだった。

その日の夕方、妹宅で山菜仕事。
たけのこは少しだったが 初物を賞味。
味噌マヨつけて うっとりと味わう。
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夜は今年初の「新生姜の佃煮」を仕込んだ、ピリリとおいしい!
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<大人になるということⅡ>

前のブログで書いたことに 付け加えたいことが どんどん湧いてきた。
今の時代は 人間の成熟ということに特に自覚的でなくてはならないと思う。
何歳になっても どんな人間を目指すかと 考えることはとても大事なこと。
なぜなら、今は大人にならなくても済むような時代だとも 言えるから。

また、どういうことが人間の成熟かと誰かに問えば、
その返事で 相手の個性がわかる気がする。

私の場合は・・・
自分のなかの善と悪、暴力性には 自覚的であること。
自分のしたこと、言説には責任を果たすこと。
人間の権利を 尊重すること。

人の間違いには 寛容であること。
間違いを犯した場合は 誠意をもって謝罪すること。

あらゆる差別を(内なる差別も意識的に)排斥すること。
歴史の事実を知る努力を 怠らないこと。
社会や政治に深く関わり続け、意思を明言すること。
行動で 示すこと。

自分のなかに 不偏的な「正義」を育てること。
そして してもらうより、なにかをしてやることを歓びとする。
考えれば いくらでも出てきそうだが。


でもひと言でいうのなら、こう言う。
「ひとりを 遊ぶ」
「他人と 笑う、食べる」

大人になるって、こういうことでしょ?

それが できる人でしょう?




# by yuko8739 | 2017-05-23 13:31 | 家族 | Trackback | Comments(0)

大人になるということ

以下、「内田樹研究室」
~村上春樹の系譜と構造~より引用

男たちは誰も人生のある時点で少年期との訣別を経験します。
「通過儀礼」と呼ばれるそのプロセスを通り過ぎたあとに、
男たちは自分がもう「少年」ではないこと、
自分の中にかつてあった無垢で純良なもの、傷つきやすさ、
信じやすさ、優しさ、無思慮といった資質が決定的に
失われたことを知ります。

それを切り捨てないと「大人の男」になれない。
そういう決まりなのです。けれども、それは確かに
自分の中にあった自分の生命の一部分です。

それを切除した傷口からは血が流れ続け、傷跡の痛みは
長く消えることがありません。ですから、男子の通過儀礼を
持つ社会集団は「アドレッセンスの喪失」(少年期との決別)が
もたらす苦痛を 癒すための物語を用意しなければならない。

それは「もう一人の自分」との訣別の物語です。
弱く、透明で、はかなく、無垢で、傷つきやすい
「もう一人の自分」と過ごした短く、輝かしく、心ときめく
「夏休み」の後に、不意に永遠の訣別のときが到来する。

それは外形的には友情とその終わりの物語ですけれど、
本質的には おのれ自身の穏やかで満ち足りた少年期と訣別し、
成熟への階梯を登り始めた「元少年」たちの悔いと喪失感を
癒すための自分自身との訣別の物語なのです。

もちろんすべての男たちがそのような物語を
切望しているわけではありません。
そのような物語をとくに必要としない男たちもいます。

「成熟しなければならない」という断固たる決意を持つことの
なかった男たちはおのれの幼児性をそのままにひきずって
外形的にだけ大人になります。
私たちのまわりにもたくさんいます。

外側は脂ぎった中年男であったり、不機嫌そうな老人で
あったりするけれど、中身は幼児のままという男はいくらでもいます。

彼らは「アドレッセンスの喪失」を経験していないので、
その喪失感を癒すための物語を別に必要とはしていません。

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人間の成熟って どういうことだろう。
内田樹氏が、村上春樹の小説を論じた文章は、「男」の成熟について、
書いてあって なかなか興味深いが、女は?
男の成熟があるのなら 女の成熟ってどういうことだろう。

男女問わず、青年期には自我の確立に伴い、葛藤や痛みが生じる時期。
一心同体だった親と離れなくては 大人になれない。
つまり「子ども」だった自分との決別。

でもそのことは もしかしたら一生をかける「仕事」だという気がする。
大人になっても強い形で 親への依存が消えない場合もある。
肉体的にも 精神的にも(可能なら)ずっと 子どもでいたい根源的な願望が
人間には あるのかもしれない。
シニア男性が妻を子守り役にしたがるのは、そういうことではないか。

しかし、人は大人になる階段を登っている。
親だけにすがるのではなく、自分の理想や希望、親以外の友や仲間と
新しく関係を創って いかなくてはならない、つまり自分だけの人生を
創っていかなくてはならない。
もちろん、それは「親捨て」ということではない。

親への愛と敬意を大事にしながら、「依存しない」という覚悟が子どもには必要だ。
依存しないで生きていくことを、自覚しなければならないと思う。
まさに「成熟しなければならない」という断固たる決意を持つことの
なかった男たち(女たちも?)はおのれの幼児性をそのままにひきずって
外形的にだけ大人になります」
その通り!!!

成熟ということに関しては 男女差はないだろう。
現代に多い、「母子密着型」の親子は、一見友達のように仲がよい。
しかし 仲良きことは 本当に「美しい」だろうか。
母子ともに 互いに無批判で 同じ価値観だけで人生に向かうのでは、
そこに人間の「個」としての輝きは薄い、まるで双子のように同じ形に見える。

男も女も すべて「個人」として生きるのでなくては 成熟した生き方には
ならないのではないか。
依存させ続ける親、過干渉の親は子どもの成熟をどこまでも 阻むことになる。

親には、依存したいが 依存しないと覚悟を決める。
そして ひとりの大人として 親への愛と敬意は惜しみなく注ぐ。
親を含めて 他人と適正な距離を取ることは 大事なこと。

ひとりの時間、自分と対話する時間を持つこと。
そして自分の流儀は 他人には通用しないと認識すること。

そういう人間の形が 私の理想かもしれない。
# by yuko8739 | 2017-05-21 09:25 | | Trackback | Comments(0)